2022/09/02

26歳も中盤を過ぎて周りの同級生はちらほらと27歳になり始めている。一日経つ度に今まで出来ていたことが出来なくなるように少しづつぽとりぽとりとなにかを落としていっているのではないかと思うのだが、その感覚すらなにか自嘲気味に気持ちよく感じているのではないかと思っている。ちんこを手で上下させれば気持ちよいのは確定的に明らかなのだが、こういった年を取ることの気持ち良さには未だに懐疑的なところもある。

27歳なるからといってなんだというわけでもないのだが、俺の中で27歳といえば父親が死んだ年齢である。父と母は26歳で俺を生みその数か月後に27歳で父は亡くなり、そしてそこから26年が今の俺の姿である。片親で育った子どもは同性愛者になりやすいというが、その通りに育ってしまったのが俺であり父親の面影を探して男を抱いているのだと思うと俺自身に憐れみを覚えてしまうがそういう傾向とは別のところで俺はちんぽこが好きなだけだと信じたい。じゃないと俺がかわいそう過ぎませんか?

しかし父親が27で死んだということは26の年でもう子どもを持つ覚悟を完了していたということである。父はかなりの瘋癲の寅さん的気質でそれなりの遊び人であったらしいので、覚悟というものが当時の父の中にあったかは知らないが翻って自分がもしその状況にあったらと思うと当然そんなことは無理だろとしか考えられない。休日はゲームかちんこをいじるだけの俺という人間が26歳で一人の女性と行きつくとこまで行きつくなど戦争のない世界を実現するほど難しく、ほえ~やっぱり結婚と子作りは勢いなんでやんすねぇ~と外野から手を組んで呟くのが俺である。

母はそれなりの良家の娘らしかったのだが、めちゃくちゃグレてそのまま同じくグレていた父と結婚までいっている。良家の縛りからの文化の違いからかヤンキーの父にゾッコンだったらしく、今でもたまに酔った時は父の話をする。その中でも好きなエピソードがあり、ある日、海を見たいと言った父はそのまま友人のバイクを半ば強奪し母と福井の海を目指したというエピソードだ。俺は父のことなど全く知らないがこのエピソードだけで父親をある程度尊敬のまなざしで見ることが出来る。海が見たかったからと言ってその日にそのままバイクを強奪して海に行きますか?普通は海に行く計画を立て準備し海を見に行くはずだ。これが普通なのだけれど、しかし同時にこの準備というのはバイクを強奪して海に向かうのと比べて明らかに目的から遠ざかっている行為でもあるのは事実だ。そして人間はこの準備に時間をかけすぎるきらいがありいつしか目的と手段を見誤ってしまう生き物だと最近つくづく思っている。

海を見たいからバイクを用意する。バイクを用意するにはお金がいる。お金は仕事をして稼がなければいけない。だから平日は毎日仕事をする。そして人はいつしか仕事に疲れて、俺の目的はバイクを買う事だよと言いつつ、仕事の効率や手法を語り始めるのですよ。これが多くの人間で、今の俺なのだ。世の中の人間が全て父のような本質を見失わない人間であれば、物事は全て単純化できてしまう。海が見たいならバイクを奪い、海を見に行く。それだけでいいのに何故かそれをしない。年を取ることに焦りを感じているのなら父はきっとその日のうちに出来ることは全てするのだろうなと思う。俺のようにちんぽを触るだけ触ってSEXがどうだの愛がどうなのと語るだけの人間にはならないでしょうね。本当の事を思い出すべきである。俺がしたかった本当の事を。いつしか俺はちんちんを触っているうちに目的を見失った。探さなければいけない。27歳になるまでに。

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