2022/11/01

俺はあるあるネタがこの世で一番笑いが取れるとよく言うが、これはほんとにそうなので別に訂正するつもりはないのだけどあるあるネタってどうしても人間をパターン化された枠組みみたいのにガシャンとはめ込んでしまうところがあって。
要はあるあるネタって前時代的なイジりであって偏見に塗れてるので昨今の"個人"を尊重する考え方には合わなくなってきてる気がしている。だからこそこんなんで笑ってていいのか?日本人!とか言う気は更々なくて、俺自身もTwitterで「#いいねした人の偏見を言う」という最悪のハッシュタグで暇を潰してる事もあるので正しくは俺自身はそんな事全く言えないんですけど。

さっきTwitterである人へのリプで「普通じゃないあなたの普通じゃない人生に興味あります!」みたいな事を言ってしまったのだが、振り返って考えてみるとまず「普通じゃない」ってのが良くない表現だなぁと思ったのだ。
この「普通じゃない」ってのは言わば厨二病的な意味合いを含んで言ってるつもりで、相手とも悪い関係を築いてる訳ではないので別にこれ一つを取り上げて悪い表現をしてしまった!と言ってしまうと俺の表現は殆どが悪い表現になってしまうので、場や状況に合わせてワンセンテンスを作りましょうという手垢まみれの結論でこの文章の結論は出ている。なので、これから書く事もそれを踏まえて読んでくれると嬉しいどす。

それにしても、昨今は表現一つとってみても気をつけなければいけない事は多々ある。
昔、言わば昭和はそれなりに激動の時代で社会全体が大きな海のような状態で個々人がその海に溶けていて個々人よりも海という集合体で動いていたように感じる。それは戦後の復興が急務だったり個人尊重の文化の醸成が成されていなかったからだと思いますけど、これは感覚的に喋ってるのであんまり本気にしないで下さい。

そういった時代を経て、法治国家として完成した俺たちの住んでる国が社会全体の利益よりも個人の情動とかを尊重するようになってきたのが、平成後期、引いては令和ですよ。
何かに属さなくても個人の主張が出来る様になったSNSの進化もこれに関連してますかね。

人間がちゃんと血の通った人間として大きな海から抜け出し他者に混ざらず自立している。
この状態が良いとされてこの状態を配慮するのが今の世の流れです。
それ自体は凄い良い事だと思うのだが、やはり俺たち人間というのは大きなナニカに属していないと不安になるのも事実で、昭和の文化の延長線上に俺たちがいるのも事実。
あるあるネタで「女は〜だから〜」とか「男は〜しがち」とか果ては個人尊重の急先鋒である俺たちゲイも「キショガリは〜で〜」「ガチムチは〜してて〜」などと言うネタで手を叩いてお腹大激痛させてるのは結局俺たちが他者をカテゴリー化しその枠から外れた個人の人間性を見ないという事が癖になっていると思うんです。

大なり小なり目の前の相手をパターン化して枠から溢れた人間性を見ないフリしてその溢れた人間性の欠けらを足で払ってるなんてのは誰にでもある事で、これの是非はもうこれからの世の流れ、お前たちの歴史が答えを出していくとしか言えない。
女性芸人をブスとイジってはいけないと言われテレビのお笑い番組でそういった表現が控えられたのは少し前だが、そういうユーモアの部分は言ってしまえば「失礼」と表裏一体の箇所が多くある。
今週のジャンプの『あかね噺』でも柏屋緑郎兄さんが「笑い合えない毒舌はただの失礼」と言っていたが、ほんとにここの綱渡りは難しい。
インターネットに失礼を垂れ流している俺はいつ断罪されるんですか。

自分の属性を"男"とか"若者"とか"ゲイ"とかそういう広義のものまで押し広げて、それと相反する者と対立するのはアホがやることですが、それに固執してしまうのは誰もがやりがちなことじゃないですか。
確かに俺たちはゲイで更に言えば俺はゲイのデブでちんぽこが臭いのですが、ゲイのデブ以上に俺たちは俺たちで他の誰もが自分と同じように血の通った人間として社会という海に飲み込まれないように必死にやってるのが現代。

混ざり合うのなら恋人と混ざり合いたいですよね。パターン化された付き合いから一歩踏み込んで、パターン化という枠から溢れた人間性を一つ一つ知っていくのが、人と付き合うという事とも言えるのではないでしょうかね。

最後に最悪のあるある言っておきます。
Tiktokにダンス動画あげてるゲイはメンヘラの確率が高い。

俺の磔刑の日には皆さん見にきて石をぶつけてください。

では。

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