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文化と信仰 〜ごはんに箸をさすのを嫌うことは文化か信仰か?〜

日本でクリスチャンになるということは、それなりに苦労がある。特に私はクリスチャンホームで育っていないので「クリスチャンの文化」が暮らしに根付いていない。日本には伝統的な文化があり、ノンクリスチャンの頃はいっしょくたに「文化」と思っていたことも、実は何かに期待したり、信じたりする「信仰」が含まれているということに最近気づいた。そのいくつかを紹介したい。

ごはんに箸をさすことは文化か信仰か?

まずは実際に写真をご覧いただきたい。実際に「ごはんに箸」が垂直にささっている画像は不快に思う方もいそうなので「大学芋にフォーク」で。

大学芋にフォークが突き刺さって立っている画像
大学芋にささって直立するフォーク。これが「ごはんに箸」だったら?

素直に感じてほしい、なんか、いやな感じがする人が多いはず。つまようじだったらセーフかもしれないけど、フォークでもちょっといや。まして、これがごはんに箸ならアウトでは?
次の画像もご覧くださいませ〜

大学芋にささっているフォーク、が器のヘリに寄りかかっている

どどーん。これセーフでは?
まあ「ごはんに箸」だったら「ちょっと待てい」かもだけども。
直立不動よりはマシという感じ? 
この2つの画像の違いは、フォークが直立しているか、寝ているか、だけなのだけど、前者にだけちょっとした拒絶反応があるのは、日本人独特の感覚かもしれない。

外国人(夫:はちみつ)に日本「文化」を説明

ことの発端は、はちみつと結婚して最初の数週間のこと。
はちみつと私は5年来の友人だったし、学生時代は週5でラーメン行ってたし、夫の食事の様子は見てきたつもりだった。同棲はしたことがなく、四六時中一緒にいることが初めてだったので、気になることがなかっただけかもしれない。一緒に暮らし始めて数週間経ったある日、食事中に夫が取り皿をとりに立ってごはんに箸をぶっさして立ち上がったとき、思わず叫んだ。(家の中でよかった…!)

文化の違い?信仰の違い?説明するのに一苦労

結論から言うと、これは「文化の違い」だと、私たち夫婦は解釈したのだが、日本で生まれ育った私にとって、「ごはんに箸が直立」していることは『生理的に無理』な現象である。クリスチャンになって数年経っても、無理なものは、無理、だった。もちろん、小さい頃から母が厳しく「ごはんにお箸はさしちゃいけないのよ」含め箸のマナーを私に教えてくれたことから、「してはいけないこと」の認識があったのは間違いないが、なんといってもやはり、祖父が亡くなったあの時に見た「お供え物のごはん」が想起されるから、自分が食べるごはんに箸を立てるなんて言語道断、『生理的に無理』なのだ。
さて、ここまで説明したところで、夫からの質問タイム。
「聖書には、祖先崇拝は偶像礼拝であり罪だと書かれていて、死者が死者の世界で『食べる』ためにごはんを供えて箸を立てる、それが意味のあることだと信じて自分たちの食べるごはんに箸を立てるのが「生理的に無理」だと拒絶まですることは「信じている」「信仰を持っている」ことにならないか?だから信じないなら別にいいじゃん?ごはんに直立お箸。」と。
確かに、夫の言うことにも一理ある。そう思った私。でも、無理なもんは無理なんよ。夫に説明するためにさらに深掘りした。

なぜ「『ごはんに箸』を拒絶」は信仰ではなく文化なのか

私たちが議論の末に、「これは大切な日本文化であり、私たち夫婦間でも尊重しよう」と決議したキーワードは「マナー」「期待」だった。この2つについて詳しく見ていこう。

一つ目の「マナー」について。
私たち夫婦は、「ノンクリスチャンのために生きる」ことを掲げて生きている。自宅をシェアハウスとして開放し、ノンクリスチャンのルームメイトを迎えていることも「キリストに仕えるように人に仕える」ことを体現しようと始めたことだ。そんな私たちが自宅で「私たちはクリスチャンだからごはんに箸立てると死者想起なんてしませ〜ん!信じませ〜ん!」と言って日本人のルームメイトの前で『ごはんに直立・箸!』をしていたらどうだろうか。日本で生まれ育った私が感じる「不快」な感覚をルームメイトにわざと味わせることはマナーが成っていない子どものすることではないか。アメリカ人の夫:はちみつが知らず知らずしてしまうのではない限り、これは守るべきマナーと言える。周囲の人を不快にさせない最低限のマナーとしての伝統的な行為、これは文化だと言えるだろう。

2つ目に「期待」について。
ごはんに箸を立てる本来の意味は「死者が死者の世界で食事に困らないように供え、お箸もすぐに使えるように一緒に供える」というものだろう(と思う。違うかも?)。これは、[ごはんに箸を立てる]という行為によって、死者の死後の生活に期待して、祈りをもって供えていることだ。もしかしたら弔う残された家族を死者が守ってくれるように、という期待もあるのかもしれない。
だがしかし、普段の生活でうっかりごはんにお箸をさしてしまった場合、そこには期待はない。つまり、そこに信仰はないのだ。

「マナー」「期待」の2点から、「ごはんにお箸」これは日本の文化のなかでも「守るべきマナー」と判断した。

文化に信仰があるかないかの違い

ある行為が、信仰であるかないかの違いは「マナーであるかどうか」「期待をしているかどうか」どちらかで判断できるはずだ、と仮定した。ここでいくつか例を出して考えてみたい。

まずは簡単な例から。「箸渡し」

箸で相手に食べ物を渡そうとする行為。これも以前夫が知らずにやってしまったこと。「早くとって!」と箸先に唐揚げをつきつけられたとき、「いいから私の皿に置いてくれ!」と叫んだ笑。これは、日本の文化のなかでも、「マナー」に当てはまるので、クリスチャン夫婦である私たちも、しっかり守りたい文化である。この行為に「期待」はないので、信仰のある行為にはあてはまらない。

これも簡単。「節分」

節分はかなりわかりやすい。結論からいうと「信仰」だ。日本では、節分は豆まきと恵方巻きの"イベント"だと捉えられがちだが、私たちクリスチャンにとっては、れっきとした「信仰ある行い」である。
「期待しているかどうか」の観点でみていこう。
言わずもがな、「鬼は外、福は内」の掛け声で一目瞭然だが、『豆をまく』という行為で『邪気が払われ福が家に舞い込むように』と期待している。「心から信じているわけではない、これは単なるイベントだ」と言われそうだが、この行為をすること自体に意味がある。もしあなたの友人が何か信仰があるのであれば、隠れキリシタンを迫害する「踏み絵」になりかねないので、強要しないようにおすすめする。同様に恵方巻きも「ある方向を向きながら黙って海苔巻きを食べる」とその一年の無病息災が約束されると信じる信仰がある。ある行為によって、何か良いことが起こると期待することは「信仰」だと思う。誤解してほしくないのが、節分は日本の伝統であり美しい文化であることに間違いないが、ただ私たちクリスチャンにとっては信仰の理由で参加できない・できれば参加したくないというだけでこの文化・信仰を否定する意図はない。ご理解くださり感謝します。

これは難しかった、桃の節句。ひな人形。

先日母(ノンクリスチャン)からの電話で「嫁の実家が孫娘にひな人形を買うのは日本の伝統だし、孫娘にひな人形を買ってあげたいんだけど、旦那さんアメリカ人だし、そういうの要らないのかね?」と聞かれ、一瞬考えてしまった。果たして、桃の節句は、文化か信仰か?
このご時世なかなか孫娘に会えない両親が、せめてもの贈り物に、と電話をかけてくれたので断りにくかったが、桃の節句も「女の子の人生について期待して祈る」お祭りであり、私たちにとっては単なる文化ではなく、信仰であると判断した。ひな人形をかざるという行為で、女の子の婚期について期待したり、健康な一生を過ごせるよう期待し祈念するからだ。私たちクリスチャン夫婦は、イエスキリスト以外に期待する対象を持ちたくないと考えているので、泣く泣く両親には断りの連絡を入れた。
重ねて申し上げるが、桃の節句は日本の美しい伝統行事で、この文化や信仰をもつ人々を否定する意図は全くない。

最後に 私たちクリスチャンは、ただ自分の神:イエスを一番に愛したいだけ

文化に信仰があるかないかの違いは「マナーであるか」「その行為の先に期待があるか」であると思う。というのは私たち夫婦の見解であるので悪しからず。
本文中でも重ね重ね述べていたが、私たち夫婦は日本の伝統や文化を尊敬していて、美しいと慕い愛している。ただ、私たち夫婦は自分たちの神を一番に愛していて、神以外を信じる行為をできるだけ避けたいと思っているのだ。

ただ、日本の文化には信仰ある文化が多くあり、私たちは自分たちの信仰のために意外と考えて生活しているのよ、そんな考えがある人もいるのね、ということをシェアしたかったので、その点ご理解いただけると幸いです。

「偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。 さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。 しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。 なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。 するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭8:1-13‬ ‭JA1955‬‬
https://bible.com/bible/81/1co.8.1-13.JA1955

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