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祈りの答え

コニツワおもちです。
1年ぶりにインスタ更新したので、
「インスタでは語りきれない話」マガジンも更新しようかな〜と筆を執りました。

洗礼は1度だけ?はちみつが「2度目」に注目した理由

はちみつが祈りの答えを実感するとき「おもちが2度目の洗礼をする!」と言う場面。この「2度目」に注目しているのには2つ理由があるんす。

はちみつが祈りの答えを実感するシーン

①おもちの信仰に感動する意味
②日本では生涯1度だけ洗礼を受けるのが普通
   の2つ。

①はノンクリスチャンの方も容易に理解されるかもしれませんね〜
「悔い改めてイエスの名でもう一度洗礼を受けたい」というおもちの信仰に感動したはちみつが発した発言。

②はちょこっと複雑。
おもちの1度目の洗礼に遡る。

おもちの1度目の洗礼は2017年7月17日。
中国で「クリスチャンになりたい」と思ってからわずか3ヶ月後。
その時ははちみつに信仰を疑われて(いると感じて)いて、「とにかく早く洗礼式をしたい。クリスチャンとして信仰を証明したい」という思いも今思えば少しはあったかも。

「純粋な神様への愛」が100%のモチベーションではなかった、そんな一度目の洗礼が行われたのは風が強く波が高い湖。
おそらく延期にすべきだったんだろうな。
牧師も安全のため延期もしくは教会のバスタブでの洗礼を勧めてくれたけど、「信仰があれば安全だ!」とアブナイ信仰論を振りかざし、「ほ...本人がそこまで言うなら...」と牧師も渋々、湖での洗礼式を続行。
(実はその湖(島根県の宍道湖)が聖書に出てくるガリラヤ湖(現イスラエル)とほぼ同じ大きさと聞いていて、「なんとビブリカルな!(聖書的!)」とはしゃいでいたので、教会のバスタブなんて絶対イヤと思っていた)

そんな自己中心的な思いのかたまりで洗礼式を強行しようとする者の洗礼が神に祝福されるはずもなく、教会の人々が祈る中(私の洗礼のために祈るというより牧師と私の安全のために祈っていたと思う)、全く風は弱まらず、高波のなか、牧師も私も命綱を離せず、ろくに祈れず、水に完全に浸かることもできず、しまいには牧師が「自分で水に浸かって!!」と叫ぶ始末。

洗礼式を祝福しに来てくれたクリスチャンの友だちには「軽く事故映像」と言われ、
クリスチャン生活の始まりとされる「洗礼式」は、残念ながら、私にとっては神の祝福多きものとは言えないものだった。

特に、私の通う教会の教義では「水に浸かる」ことが重要視される洗礼において、荒波の中、完全に浸かったかどうかわからないような洗礼は、「完全な洗礼ができていたのだろうか...?」という疑問を私自身の中に残してしまった。

1度目の洗礼式の数ヶ月後、私は牧師にこの疑問を打ち明け、「もう一度洗礼を受けたい」と言ったのだけど「おもちは信仰によって洗礼を受けたのだから、2度目をしなくて大丈夫だよ」と励ましてもらうも、心では納得できていなかった。「だって聖書にはイエスだって洗礼を受けて、水のバプテスマを受けたって書いてあるんだから!私もイエスのようにイエスの時代の方法でしっかり洗礼を受けたい!」と思っていた。

時を同じくしてはちみつも、おもちの洗礼を見て、疑問を持っていた1人だった。「結婚する女性は[自分と同じように]神を愛する女性」と決めていたはちみつ青年は、おもちの洗礼を見てサスピシャスな思いを抱いていたらしい。日本の教会はだいたい一生に1度しか洗礼を受けさせない(多くの国がそうだが、はちみつ母は3回洗礼を受けていたり、はちみつ自身も小学生のときと日本に留学中の2度洗礼を受けていた)ので、おもちが改めて洗礼を受けることは到底ないと思っていたからだ。おもちの1度目の洗礼を見ていたはちみつは、「あー、やっぱりおもちは自分の結婚相手ではないのかも...!」と落胆していたらしい。

そんなおもちがアメリカに来て
はちみつが小学生の時に洗礼を受けた教会の洗礼槽で
イエスの名によってもう一度洗礼を受けるということは、
はちみつにとっては「願ってもないすごい奇跡!!」だったのだそうだ。

実は祈りの中で「もしかしておもちが僕の教会で洗礼受けることもあるかも?」という思いが与えられたこともあったそうだが、「いやまさかね」と自分自身で否定していたらしい。

そんなわけで2年間はちみつは祈り続け、その信仰ある祈りに神様が答えてくれて、おもちが神から与えられた妻で、神からのギフトだと確信したそう。

「ひとこと聖書紹介」の深掘り

シリーズ化しようと目論んでいる「ひとこと聖書紹介」コーナー。

おもちがはちみつにインタビューするけど、たまに思ってたのとは違う聖書箇所が飛んできて編集に戸惑う。
それがこれ。

私は「祈りの答え」と聞くとマタイの7章7節が思い浮かぶから、はちみつとその聖書箇所について紹介したかったのだけど、
コミックの概要をひと通り聞いたはちみつは箴言をチョイス。

「うーっそこかあああ!」と悶えつつ、私のチョイスを苦し紛れに滑り込ませたおもち。

まだマタイ7:7について語り足りないので、語らせてくれ!

聖書の面白いところは、いつもコンテクストがあり、一部を引用するだけじゃ深い理解に繋がらないところ。

このマタイ7:7も続きがあって、以下の聖句が続く。

「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:8-11‬ ‭JA1955‬‬

(マタイ7章は「豚に真珠」の語源もあるし、「狭き門より入れ」とか有名な聖句も多いので最後に全文載せちゃう)

そう。この聖句は
「祈れば(神の御心にかなうものが)与えられる」というなんともエンカレッジングな聖句。
私事ながら先月第一子を出産したのだが、まさに「自分の子供には良い贈り物をしたい」と思う。
それと同じように、神も私たちに(クリスチャンに限らず全ての人間に)、ベストなギフトを贈りたいと思っておられるというこの聖句。なんともエンカレッジングでしょ?

はちみつの2年の祈りに神が答えたエピソードを聞くと、私はこの聖句が思い浮かんで、「自分の想像よりずっと良い人生の計画を用意してくれている神様」の存在に心温まる。ほっこり。

今日もあなたに、神様からベストな1日が贈られますように!

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:1-29‬ ‭JA1955‬‬
https://bible.com/bible/81/mat.7.1-29.JA1955

サポートいただけますと感謝です。ーおもちみつ