輪郭を愛する

わたしは自分をフェミニストだと感じるが、フェミニストだと感じている人たち全員と同じ思想を共有しているとは全く思わない。例えばわたしが是とすることをありえない!と思う人もいるだろうし、その逆も然りだ。

その視点は全くなかったけど、なるほどな〜そう思う人もいるよな〜みたいなことがよくある。なるほどな〜と思うだけだけど。でも、別に思想に関わることじゃなくても、なんでも、他者が思ってることに対して思うことって「なるほどな〜」くらいでいいのかも。折り合いをつけながら、好きになったり、嫌いになったり、関わったりしたらいい。

高村友也「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」を読んだ。

最近なかなか小説を集中して読むことができず、図書館で哲学と刺繍の本ばかり借りて読んでいる。最近のわたしはそんな感じで、頭を動かしたり、手を動かしたりして、胎内で子どもを育んでいる。体調的には100%で元気!という状態に去年の夏からなっていないけど、豊かだと感じる日々だ。

存在消滅は誠実なエッセイだった。嘘やごまかしがない。死が怖い人も、死が全く怖くない人も、死について考えてことがある人は誰でも面白く読めるはず。ずっと自分の感性で、自分の死に対する恐怖について、そしてその恐怖との付き合い方についてだけが書いてあるけれど、湿っぽさがなく、精密で、スッと入ってきて、読んでよかった〜と思った。

「死の恐怖」と言ったとき、次の二つを明確に区別しなければならない。
一つは、悲しみ、痛み、苦しみ、孤独、別れ、未知などに対する恐怖である。これはしかし大きな程度の差があるとはいえ、人生の内部で起こるその他さまざまな恐怖と同種の恐怖である。自分の生命が脅かされることに対する、本能的、あるいは動物的な恐怖である。
いま一つは、自分が永遠にいなくなること、自分の意識が永遠になくなることに対する恐怖である。ただ単に意識がなくなるということではなく、それが何億年か続くことでもなく、そこに永遠性が伴う。動物的な恐怖とは全く別種の恐怖である。
どうやら前者の恐怖は人類共通であるのに対して、後者の恐怖はほとんどの人が感じないらしい。他人のことはよくわからないが、三十九年間生きてきて、そう思う。
私にとっての問題は、後者であって、前者ではない。

高村友也 存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ

マジ!?!!!????!!
全体を読んで、一番マジ!?!!!!?!!!と思ったのがここ。著者のいうことはだいたい理解できる。わかるな〜と思う。なんでかというと、わたしにとっての問題も俄然後者だからだ。永遠に「わたし」が感知できなくなることが怖い。もちろん、悲しみ、痛み、苦しみ、孤独、別れ、も超かなりめちゃ嫌だけど、でも、何が一番怖いか、嫌か、と問われたら「わたし」という意識の消滅だと思う。みんなそうだと思ってた!でも、高村さんも他人のことはよくわからないが、って言ってるし、どうなんだろう。みんなどうですか?

そして、恐怖の種類は似ているのに、生き方や向き合い方は全く違うということも面白い。

だいたいの人が、毎日、起きて、食べて、寝る。働いたり、遊んだり、学んだりしている人もいる。でも、だいたい学生なら学生、会社員なら会社員、と、パターンがある。でも、どんなパターンに嵌っても個人は個人だ。輪郭が隔てられて、どれだけ近づいても、同じにはなれない。だから、それを楽しんだり、おかしんだりしたい。

子どもが生まれたら、なおさら。いまはわたしの中にいるこの人の輪郭をきちんと愛したい。

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