背中も口ほどにモノを言う
新宿京王百貨店の屋上に、BBQ場があるのをご存知だろうか。
ブロックごとにテントが分かれていて、タテ長の団体席が隣合わせに並んでいる。その日、私たちが案内されたブロックの横では、すでに若い女性たちが宴会を始めていた。いまどきのギャル集団である。
お酒を取りに席を離れると、ギャルのメンバーと思しき女性が数人、カウンターに並んでいる。そのとき、キャミソールの肩紐とポニーテールの間に、もっこりと背筋が浮き出ているのに気が付いた。
「あれはモデルだね」と、後ろから追ってきた先輩が言った。たしかに雰囲気は遊び人だが、ただ遊んでいるだけの人にあのような鍛えられた背筋は作れない、と彼は言う。のちのち聞こえてきた会話から察するに、確かにそれはモデルの集団だった。
「目は口ほどに物を言う」とはよく聞くが、背中も同じようだ。「親の背中を見て育つ」「背中の傷は武士の恥」など、昔から人は背中に生き様を感じてきた。
なるほど、現代でも街を観察すれば、背中から様々なドラマが見えてくる。シャツが皺だらけの人。几帳面にアイロンがかかっている人。筋骨隆々な人、痩せている人。水着のラインが白くなっている人。
それぞれが、その人の生き方を物語るメッセージだ。背中は、その人の生活を表すスクリーンである。
しかし、人はそんな自分の背中を、終生見ることができない。
「どんなに賢くっても、人間自分の背中を見ることはできないんだからね」
山本周五郎の小説『さぶ』に出てくる台詞だ。自分の生き様を示しているのに、自分では確認することができない。背中は、閻魔帳のようである。
我々が湯船につかると快感を覚えるのは、 普段は見ることができない自分の背中を「感じ」られるからだ、と聞いたことがある。入浴文化は、自分自身の不確かな部分を確かなものにしたいという人間の本能だろうか。
とは言え、見えないことに変わりはない。人のふり見て我がふり直せ。私の背中は何を語れているだろう。凛としたあのモデルの背中を見習いたい。
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