宇多田ヒカルというすっぴん
先日、Twitterのスペースで「宇多田ヒカルについて語る」という会を語り手として参加させて頂いた。
言いたい事は割と言語化出来ていたような気がするけれど私の思いがどんな形で伝わったのかは分からない。
いや、言語化出来たと言ったけれど、もぅ少し、あともぅ一歩、思考や言葉が足りていない気がする。だからこうしてnoteを書いている。「しつこないなぁ…もぅ」と自分の中の自分に言われながら
すっぴんになれたのか
スペース内でも話題になった「パンツ脱いでる」という状態、格好つけるのをやめて素の自分を曝け出す行為の比喩的表現だけれど、それを女性的な表現で言うと「すっぴんになる」と某ラジオ番組で言っていた。
大事なのはそこだ。
そこが言語化できているか?
私はすっぴんになれたのか?
ギリギリ眉毛は残っている気がするのでここで眉毛も落としてしまおう
熱くなりきれない自分
結局のところ、私が宇多田ヒカルを好きな理由は不完全燃焼気味な自分の心に寄り添ってくれた気がするからだったと思う。
「マリア 愛すべき人がいて」
なんて、マリア様に祈れるほど愛する人はいないし
「時に 強い孤独を感じ」
なんて、そんな強い孤独を感じれるほど悲劇のヒロインとして自分自身に酔いしれる事もできない
でも
「無理はしない主義でも
君とならしてみてもいいよ」
ぐらいなら自分にも解るし、それぐらいの恋愛なら出来るような気がする
そう、そうゆう事なのだ。
性格なのか時代のせいなのか分からないけれど、物事に熱くなれない自分が居るのに、メインストリームで歌われている歌詞は熱くて情念に溢れていた。
そのギャップが苦しくて、少し距離を置いた所から世の中を見ていた。そこに宇多田ヒカルの音楽があった。
あんな風に情熱的に物事には関われないけれど、それでも恋愛はしてみたいし、少しは熱くなってみたい。そんな自分の心に誠実でありたいと思う自分の気持ちにピッタリだったんだろうと思う。
当時の口癖
中学生の頃、よく思っていた事があった
「人間が六角形だったとして、全ての面がピタっとあう他人なぞ居ない。所詮は一面の付き合いでしかないんだ。でも全ての面が合う他人を求めてしまう自分も居る」
みたいな人類補完計画的な事をツラツラ考えていた事を思い出す。振り返ってもなかなかキテる中学生だと思う(皆そんなもんなのかな?)
However the night flows
うん、まぁ、そんな感じで
最後の眉毛は中学生の頃の自分だった
Laughter in the Darkのアンコールで
「本当に欲しいもの欲しがる勇気ほしい」
とここまで自分の気持ちを言語化して、中学生の頃の自分を否定せずに成長した姿を見せてくれる宇多田ヒカルを心底、尊敬しているし、その姿はまるで人生という迷路の少し先を歩いてくれている身近な先輩のように感じたのだった。
こんな話が出来る場を作ってくれた方、話を聞いてくれた方々に感謝しつつ、またメイクをして日常を生きていこうと思います。
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