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古事記と憑物語

怪異とはつまるところ、思い入れなのじゃ ≪憑物語 忍のセリフ≫

忍野忍、元人間で吸血鬼、専門家により知識を得た怪異自身からの自身の定義。この後ストーリーは主人公である暦が九十九神や日本神話、怪異譚を連想させ《よつぎドール》へ入っていく

万物に神が宿るという考え方、
八百万の神という考え方は、日本独自のものとも聞くが、
しかし、生物、非生物を問わず、人間以外の何かに対する感情移入は、世界中にあるものだろう
だから怪異譚は、世界中で語られる ≪憑物語 暦のセリフ≫

所で、怪異譚は世界で語られるとあるが、怪異が神に成りえるのは日本だけなんじゃないかな~っと思う。

キリスト教では悪魔が神様になる事はあり得ない。悪魔は悪魔のまま信仰する。でも日本は鬼神、貧乏神、疫病神と文字通り全てが神々として思い入れられている。その多神教文化の中で神か悪魔か二分法で設計された西洋的な価値観は日本人には合っていないような気がする。っと西洋文化と日本文化が全然違うからそこから見直そうぜ!という主張は落合洋一さんも日本再興戦略で語っていたからいいとして・・・(日本再興戦略読み物としてめっちゃおもろいし、読んでてわくわくするよ!おススメ!)

つまるところ人の思い入れというのは改めて言われると「なるほどな」っと思った。日本に天皇という物が誕生し、古事記が記され、天皇が神の子孫だという話を作った。それを皆が信じた、思い入れをした。だから在りえるのだと言っている。あとこんな話もしてた

模しているということは、なろうとしているわけではない証明なのだと
あくまでもそれは、人間社会に紛れるための手段であり―
相容れるための手段であり―
つまりは同化するための手段ではないのだと

神が怪異が人間の姿や人間世界の形(動物とか)を模して居るのは同化するためじゃなくて異物の証明だと言っている。ただの発光体を拝んだり怖がったりはなかなか出来ないし、同じ形を模していれば違うところがよく解りますもんね。

怪異の能力やパワーに関しても人の思い入れが深く関係しているのだろう。例えば、よつぎは忍曰く「資料も文献もろくに残存しておらん極東のマイナー妖怪」だそうで、それに比べ忍は吸血鬼。世界中が様々な形で語られ、ハロウィンでは子供が仮装する。そりゃ人からの思い入れは強いしそれがイコールでパワーとして強いのだろう。正に怪異譚の王、怪異の王なのだ。

こう考えるとよつぎドールの冒頭の忍と暦の会話って面白いな~っと思う。


話は変わるけど化け物語って云わば神様や妖怪を可愛い女の子に擬人化した話なんですね(今更)そりゃ面白いわ。

神様や妖怪の元の話、プロローグ?的なのって皆なんとなく知ってるもんね。そのプロローグから考えられるストーリーをそれぞれの女に子に組み合わせていけば一生できるじゃん!っとふと思いました。なんにせよ面白い作品ですよね。

#化物語 #憑物語 #落合陽一 #古事記

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