自立
「自立」という言葉を調べると、このように定義されている。
経済的自立、精神的自立、生活の自立など、組み合わせて使われることもある。
これらの自立は、必要なのだろうか。
生きていくために、お金を稼いで、自分の身の回りのことができて、自分のことを自分で決める必要がある、というのは、ある程度そうだと思う。
一方で、「自立とは、依存先を増やすこと」ということも言われている。
正直なところ、私としてはどちらもあまりしっくりきていない。
私は、経済的にはまだまだ親や祖母に依存している節がある。食費や光熱費は祖母が負担してくれているし、生命保険は父親が負担してくれている。
生活面でも、祖母の家に住まわせてもらうようになってからは、祖母が家事をやってくれることが多い。
精神的には、昔から結構自立していると言われる方である。自分のことの意思決定は主体的にやってきた。「しっかりした」考えをもって、今までの人生を歩んできていると思う。
一方で、「しっかりしている」からこそ、変なところで苦労してきたように思う。
なんでも自分がやった方が早い、ひとりでできる、そう思って幼少期から現在に至るまでつっぱしってきた。
でも、なんだかうまくいかないことのほうが多かった。「できる」から心配されずに、変なところでミスをして誰にも気づかれないまま失敗するのである。
鬱になった時もそうだったように思う。「家族に心配をかけてはいけない」と思い続けたために、様子を見に来るな、私は大丈夫だから、大したことないと拒み続けた。
自分自身でも、本当にそう思っていたというのはある。
塾で働き始めて、いろんな個性をもった生徒たちの様子を見ていると、「頼るのがうまいやつほど、ちょっと抜けてるやつほど、なんだかんだ人に支えられてうまくやっている」というのがわかってきた。
また、「自分1人でうまくやろうとするやつよりも、自然と人を巻き込んでさりげなく助けられるやつほど、自然と人に助けられてうまくやっている」というのもわかってきた。
結局、自立も依存もしていないくらいのほうが、なんかそれなりに楽しくやっていけるんだろうな、と思うようになった。
お互い様なのだ。自立しているやつが上で、依存しているやつが下、みたいなのではなく、ちょっとずつ補いあえるのが一番健全な状態なのではないか。
ギブアンドテイクとか、そんな利害を考える堅苦しいものでも、見返りを求めるものでもなく、誰かをちょっとずつ支えて、それが循環して、それぞれがよりよく生きていけたら、それでいいんじゃないだろうか。
少なくとも私は今、恵まれている環境にいると思う。こんなぬるいことを言えているわけだし。
金銭的な意味だけでなく、祖母のスマホの操作を手伝ったり、母親の体調を気にかけられたり、生徒の些細な話を聞いてモチベーションをあげたり、ひとつひとつはちょっとしたことかもしれないが、人が生きるなかで大切なことを少しだけ支えられているような気がする。
他の援助を受けない、力をかりない、ということは目指すべきではないのかもしれない。
わからなかったり、つまずいたり、進みたいと思ったりした時に、ちょっと人に頼ったり、頼られたりすることの積み重ねが、人と生きることの本質として大切なのかもしれない。
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