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「多様性を認める」という言葉が嫌い

タイトルの通りである。

現代社会においては、LGBTQとか、発達障害とか、精神疾患とか、移民とか、難民とか、女性とか、なんかそういった属性によって「弱者」とされたり「差別を受けている存在」とされたりするらしい。

間違いなくそういった側面はあると思う。
私自身の話に当てはめると、非正規でパートみたいな働き方をしているのは圧倒的に女性が多い。
精神疾患を持っているために心身の調子によって働ける時間や場所が限られる。

そういったことが「労働」という点で不利になり、「賃金」という、資本主義社会においてなくてはならないものの受け取る量が必然的に少なくなる。

職に就けないことによって差別される、差別されることによって職に就けない、これは卵が先か鶏が先か、みたいな話の気がする。そもそも、いい職に就かなければならないという圧の強さはなんなんだろう。

また、LGBTQの話だと、社会的には「結婚」が認められていない国や地域が多く、宗教などの考え方によってむしろ迫害されているという例もある。

日本においては、結婚が認められないことによって、普通に学校を出て、普通に働いて、普通に結婚して、普通に子どもを産み育てて…みたいな、「普通」のモデルの中に必然的に組み込まれない、手に入れたい「普通」の幸せが認められない、という問題があるのかもしれない。(この結婚の例だと、LGBTQ関係なく、したい人は誰でもできる、したくない人はしなくても何も言われない、のが「普通」になればいいな、と個人的には思うが。国家としては結婚して出産して子を産み育てるという前提のシステムなんだろうけど。)

じゃあ、これらが多様性で、それを認めていこう!という流れは、本当にそれでいいのか?と思う。

多様性については、さっきも挙げたように、「弱者」や「マイノリティ」という文脈と一緒に使われる言葉になりつつあるのではないかと思う。というか、そもそも普通ってなんなんだ?と思うわけで。

日本なら、男性で、健康で、正社員で、既婚者で、奥さんも子どももいたら、「普通」になるのか?と思う。このような、その人の一側面を切り取った属性が、少しでも「普通」から外れていると、「弱者」となり、逆に「強者」であればそれを僻まれる世の中になってしまっているのかもしれない。

そもそも、弱者とか強者とかを考えちゃってる時点で全く多様ではないよね。区画整理しないと気が済まないのか。

今の日本(主語デカめ)は、「普通」を基準にして、多様性という名のもとに「弱者」の属性を持つ、声が大きい人の意見を拾い上げていくことで、「多様性を認める」という大義名分を果たそうとしているようにしか見えない。

「多様性を認める」ことをひとりひとりに要求するよりも、日本においては「普通をなくす」ほうがそれに近くなるんじゃないか、とすら思う。

私は実家暮らしで、双極性障害で、強迫性障害で、仕事はパートとアルバイトと業務委託を掛け持ちで、まあわりと「弱者」かもしれない。

でもこれで自分はなんとか生きていけてるわけだし、それなりにやっていけているわけなのだから、これでいいのだ。完全に納得しては無いけどね。

とはいえ、色眼鏡で一部の属性をみて評価されることが、差別がなくならない、多様性を認められない理由なんだろうな、と思ったりする。

多様性は、自分が認めるか認めないか関係なく、既に存在しているということを忘れてはいけないと思う。

あなたが承認しなくても、色んな趣味嗜好、価値観、特徴を持った人がこの世には約80億人いるのだ。

いくら多様性を認めろと言われても、私の場合、心は女だからと女湯に入ってくる身体は男性の方がいたら、恐怖でしかない。死んだ人がフェチですとか、死んだ人を食べるとか、そういう価値観は、私の倫理観に相反するので、受け入れられない。

基本的に私は、「差別は良くない、とはいえ他者の生命や心身の健康に関わるような倫理に反することをする人とは関わりたくないし認めたくない」というスタンスでいる。

日本では「公共の福祉」という概念があるが、これは結構難しいけど重要だと思っている。

じゃあ、どうすればいいのか?

これに関しては、嫌悪感を抱くものにはわざわざ絡みに行かない、触れないというのも必要なアクションだと思う。誰かが傷ついていて、助ける必要があるならば別だが、自分から無駄に干渉しに行く必要は無い。

かといって、考えないのがいいとも思わない。その人がどんな人生を歩んできたのか、理解が出来なくても想いを馳せてみることはできる。それは自分にも言える。どうして嫌悪感を抱くのか、攻撃する前に、怯える前に問いかける。

あとは、目の前にいる人がどんな人で、どんな事が嬉しくて、どんな事で困るから、どうすればいいんだろうね、を考え合えるやさしいせかいになればいいという、超絶ゆるふわ世界観である。
まあこれができんからな〜人間。自分生きるので精一杯やからな〜、とは思う。

元をたどると、資本主義社会の功罪と嫌悪感が複雑に入り交じって、多様性という言葉が乱用されるようになったのかもしれない。知らんけど。

強者が弱者に配慮する、という構図もなんだか気持ち悪い。弱者の声だけ聞いたら、その他の人にも迷惑がかかることがまかり通ってしまったり、強者が考えた弱者への対応という超絶無意味なことが発生してしまったりするからだ。

眠剤を飲んでいてよくわからなくなってきたが、私は「精神疾患があるから」「発達障害だから」は免罪符では無いと思っている。「精神疾患なのに頑張っていてえらいね」も違う。「全然精神疾患に見えない」も違う。私は私なのだから、属性ではなくもっと複雑に折り重なった「私」という人間を見て欲しいし、困っていそうなことがあれば対策を一緒に考えて欲しいし、逆に考えるし、ただただ話をして、わかりあえそうなところがあったら仲良くなればいい、と思っている。

正直、人間どんなに仲良い人同士でも完璧には分かり合えないしな。

国家間とかそんなデカい話は知らんけど、「弱者カード」をいっぱい持ってるやつが「強者」にハンデをつけてもらってバトルを挑む、みたいな構図はやめて、どうせ日本が今のままで豊かになる未来は見えないんだから、みんな等しく貧しくなるよりはそれぞれのベクトルで生きてられるようになることのほうが、よっぽど多様性は尊重されると思う。認めなくていいよ。勝手に多様性は存在しているから。

私という人間をお互いに知り合えた方がよっぽど価値があるんじゃないかと思うね。知らんけど。

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