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「普通」になりたい

高校に入学したばかりの私は、書道部に入部した。

部活にはそんなに力を注がなくてもいいように、ずっと楽しいと思ってやってきて趣味程度に続けられる書道部を選んだ。

部活に力を入れないつもりだった理由は、地元の国立大学の教育学部に進学するための勉強時間を確保するためだった。

普通に勉強していたら合格できる範疇だったと思う。模試では早い段階からA.B判定が出ていた。

高校を卒業したら、大学に進学して、小学校の教員免許を取得するために授業を受ける。

地元の教員採用試験を受けて、地元で教員になる内定をもらい、大学を卒業する。

地元で大変ながらも教員をやりつつ、素敵なパートナーを見つけて、教員同士で結婚する。

自分は産休育休に入り、20代後半で子どもを2人産んで、育てる。

そして復職し、定年まで教員人生を送る。

無事に子どもたちを送り出し、パートナーと幸せな老後を送る。

こんなライフプランを思い描いていた。

24歳の今、どうなってるかって?

なーーーーーーーんにも、叶ってません!!!!!!!!

高校1年生の5月、先生に言われるがまま始めた校外活動に面白みを感じてしまった私は、校内に校外活動をするための組織を立ち上げてしまった。

塾に通ってそれなりに勉強もしたけど、数学も化学も世界史もマジで意味わからなすぎた。
現代文は勉強全くしなくてもなんかできた。
英語は面白かったから頑張ったらまあ結構できるようになった。

でもそんなことより、色んな人と知り合ってベラベラ喋る機会があることに魅力を感じてしまった。田舎にはない価値観の人たちの考え方がとても面白いと思った。

それと共に、「格差」というものを痛感するようになった。教育の格差とひとくちに言っても、親の収入や教育意識、選べる教育環境…誰も悪くないのに構成される、これらの人生の機会に対する周囲の環境が異なるだけでも、その人の生き方が大きく変わってしまうということがひっかかった。

世界に平等とかないと思っていたし、多様性という言葉もなんとなく気持ち悪いと思っていた。現にそんなもんがあるなら、こんなに苦しい思いをする人を見ることは無いよ。人は比べてしまう生き物だし、持つ者と持たざる者は必ず存在するし。いい教育の先にあるのはいい仕事、資本主義社会で生きる人間として勝ち組になることだしな。などと思っている高校生だった。

もうこんなん考えちゃってる時点で、だいぶこじらせて斜に構えまくってる高校生だった。しかもまだまだ見えてないことたくさんあったし。

そして無事に起立性調節障害を発症し、高校三年生の超絶大事な受験期を病院で過ごすという最悪すぎる状況になった。

にもかかわらず、持ち前の文章力(?)と、脳からの司令が出る前に勝手にベラベラと口から発せられる言葉たちのおかげで、学力を一切使わず、全然地元じゃない都会(?)の大学の教育学部に合格してしまった。

起立性調節障害を引きずったまま高校を卒業したら、大学に進学して、小学校の教員免許を取得するために授業を受ける。

しかし起立性調節障害は手強かった。普通に朝起きられなさすぎて単位落としまくった。大学生は寝坊でサボるとかザラらしく、言い訳として病気のことは全然聞き入れられなかった。

そしてコロナ禍になり、結構人生でもデカめの辛いことがドカドカと一気に降ってきた2020年、私は無事に鬱病を発症する。30キロ太った。テカテカでフケだらけの頭、だらしない身だしなみ、臭いし足の踏み場もない部屋で、「私は普通だ!鬱なんかじゃない!」と本気で思っていた。

しかし鬱は鬱だし、辛い事たちの様子は深刻化するばかり。完全に人として崩壊し、教育実習を途中辞退し、教員免許を全く取らずに教育学部を卒業することが確定する。

さらに、実家に帰らざるを得ない状況になり、大学院進学を諦めて地元に無職で帰ってきた。

そして今、フリーター2年目である。

さらに、鬱病は誤診で、双極性障害であることが発覚する。

まあ、医者じゃないからわからんけど、これまでの病気は全部脳のつくりが人と違うっぽいところから現代社会を生きる上で不都合が起こってんだろな〜という見当がついてきた。

私の得意なことも、苦手なことも、だいたい元を辿ればここに行き着く。


あまりに自分語りが長くなってしまった。

結局、私が思い描いていた「普通」の人生は、何も叶っていない。

そして未だに私は教員になることを心の奥底では夢見ている。

「普通」で「敷かれたレールの上を歩く」ことのできる人が羨ましくて仕方がない。

できることとできないことの差がとんでもなくて、体調もメンタルも落ち着いていることがほとんどない私にとっては、叶いもしない、叶ったとしても続かない夢物語なのである。

病気だから、という理由だけでは片付けることのできない、私という人間の特性が、「普通」でいることを切望するのに持続させられない大きな要因になっている。

「あなたのキャリア、面白いね!似合ってるよ!」を全然素直に受け取れない。私は自分のこと面白いとか、特別な才能があるとか、ほんとに思っていない。むしろ、できることとできないことの差があまりに激しくて、折り合いが全然つけられない。

時代にあった生き方、働き方、とかじゃなく、これしかできないからこれをやらざるを得ないだけなのだ。

この環境があることには、本当に心の底から感謝している。今の時代に産まれてギリ助かっているのかもしれない。

とはいえずっと切望する。どこにもない「普通」を求める。

おもしろいことをやりたいなんて本当に思わない。今もしそう思ってくれている人がいるなら、面白がられているだけかもしれない。

今の自分が楽しくないとか、不幸だとか、そんなことは思わない。むしろ、祖母との暮らしは本当に楽しい。

ただ、ベッドに籠って昼間ずっと寝続けた上に、夜も寝てしまう自分が憎い憎いと思ってしまう私が、いる。起きていられない倦怠感、理由のない不安、消えてしまえたらどれだけ楽だろうかとぐるぐる思考したままうとうとし、悪夢ばかり見る。

ないものねだりだ。

わかっているけど、欲しい。

健康な心身、普通な人間の思考回路が。

自分が特別な人間であるというのではなく、ひとりで勝手に苦しむ自分の世界から解き放たれたい。

解き放てるのは自分しかいないのだろう。

一生無理だと思う。

どこにもない「普通」を追い求める限り。

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