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夏の風の神、パンに祈るために 第12話/完結

 夕希ちゃんは思っていたよりも綿密に計画を立てていた。「久野さんをディナーに誘い出す」という役目はかなり緊張したが、彼は近所にラーメンでも食べに行くような気軽さで了承してくれた。それがあまりにもさっぱりとした返事だったので、本当に伝わっているのか心配になったが、二人の住む家へ迎えに行って扉を開いた瞬間、壁に掛けられたジャケットを見て、その不安も一気に吹き飛んだ。

「素敵なスーツですね」

「ああ。だって今日は、君とディナーだろう?」

 久野さんは、かつて自身が演奏していたようなラウンジで食事をとるのだと思っているらしく、かがんだ頭髪から、ほのかにコロンの香りがした。

「本当は僕がエスコートするべきなんだろうが、こんな状態だ。なんだかすまないね」

 「いいんですよ。私がお誘いしたんですから。今夜はとっておきの場所を用意しているんです。楽しみにしていてください」

 私はポン、と久野さんの背中を叩き、「さあ、行きますよ」と杖を手渡した。

 夕希ちゃんの働く施設は中央公会堂の裏手にあった。表通りのにぎやかな喧騒から離れていくにつれ、久野さんの口数はどんどん増えていく。「場所は合っているのかい?」「なんというお店に行くんだい?」という質問を、「隠れ家的なお店なんです」と一蹴し、彼の手をぐいぐい引いた。

 戸惑う久野さんを引きずるようにして会場へたどり着くと、辺りの建物は一切の気配を消して、ひたすらに静かだった。夕希ちゃんの話によれば、実習室は勝手口を入ってすぐに右手。扉を開けたら二人でクラッカーを鳴らす手順となっていた。地面の感触も扉の音も、明らかに店の入り口とは違ったが、久野さんはもう、何も言わなかった。

 非常灯の明かりだけが灯る暗い廊下を抜け、実習室へ入ると、突然まぶしい光が飛び込んできた。失明している久野さんにも光の気配が伝わったのか、彼は入った瞬間小さくうつむいた。それを合図にして、ユキちゃんと一緒に、いっせいにクラッカーの紐を引いた。

 パン、パン、という音が響き、火薬のにおいが辺りに漂う。そうして改めて室内を見渡すと、そこには約束どおり、夕希ちゃんが用意したステージが出来上がっていた。和紙で作った赤い薔薇や、色とりどりのガーランドなど、賑やかすぎるほどの装飾が部屋中に散りばめられていたが、「ハッピーバースデー」という文字だけはどこにも見当たらず、黒板の前にひとつだけ、布をかぶった大きな板が置かれていた。

「原田さん。私、素敵な絵が描けました」 

 久野さんの手を握ったまま立ち尽くす私の前で、夕希ちゃんは板にかけられた布を剥ぎとった。それは子供が一人収まりそうなほど大きな油彩画で、キャンバスには異国感のある草原が一面に描かれていた。

「私、ヒロさんに言い表せないくらい感謝しているんです。ヒロさんはどんなときでも私のそばにいてくれて、数え切れない不安や辛さをすべて吹き飛ばしてくれた。ヒロさんは私にとって、真夏に吹き抜ける一陣の風のような存在です」

 キャンバスに描かれた草原は、どこまでも広く、雄大だった。白い道の脇で、色とりどりの花たちが光に照らされ揺れていて、絵具は混ざることなく重なり、新たな色を生み出していた。大地を爽やかに吹き抜けていく厳かな風は、まるでそこにあるように鮮明に描き出され、瑞々しい青葉のにおいや、照りつける陽の暖かさが、瞳を通して伝わってくるようだった。

 タクシーを拾えば五分で帰ることができる道のりだったが、帰りは久野さんの希望で、再び歩くことになった。久野さんは私と、私は夕希ちゃんと手をつなぎ、できるだけゆっくりとした歩幅で歩いた。

「私ね、夕希ちゃんにずっと聞きたいことがあったの。なのに、ずっと遠慮して、なかなか言い出すことができなかった」

えー、なんだろう。夕希ちゃんは笑いながら、小さく首を傾げてみせる

「夕希ちゃんにとっての『第一印象』ってどういうもの?」

 今まで喉につかえていたはずの言葉は、自分でも驚くほどにするりと飛び出していった。夕希ちゃんは「なんだあ」とおかしそうに笑い、あっけらかんと答えた。

「それはね、『声』だよ」

あまりにも簡潔な回答に、思わず「声?」と聞き返す。

「うん、声。っていうより、『話し方』かな。ヒロさんが前に『音を見る』って言っていたけど、私は『人の声』を見ているの。顔に作る表情はごまかせるかもしれないけど、声って意外とごまかしが効かないんだ」

 私はふと、伊澤さんと金子さんの口調を思い返した。確かにどちらの声も、その性格に見合ったもののような気がする。

「自分の声は聞き慣れているからわからないと思うけど、注意して『見ている』と、取り繕うときや嘘をつくときは、ちゃんと声色が変わるんだよ」

 でもね、と夕希ちゃんは続ける。

「原田さんは全然、そんなことなかった。出会ったときから今まで変わらずに、ずっと優しい声のままだった。いろんなことに怯えていて、ちょっと自信がないような声。なのにしっかり芯があって、ゆったりとした安定感のある話し方をする声。原田さんの第一印象は、ヒロさんにとても似ていたの」

 すっかり無口になってしまった久野さんは、しばらくの間白杖をカツカツと鳴らすだけだったが、夕希ちゃんが自宅の近辺まで帰ってきたことを告げると、突然に口を開いた。

「ところで、今は何時くらいかな?」

 街灯が少ない裏路地では、腕時計も見えづらい。私は携帯のスイッチを押して、デジタルの数字を光らせた。

「ええと……。ああ、もう日付が変わってしまいます。あと十分くらい」

 彼はふむ、と呟くと、白杖をせわしなく動かして、明確な現在地を把握しようと試みた。

「夕希、ここからタチバナ商店の看板は見える?」

 タチバナ商店とは、二人の自宅から百メートルほど離れたところにある、金物屋の名前だ。

「うん、見えるよ。ヒロさんの親指くらいの大きさで見える」

 彼女は水平にした手のひらをおでこにあて、大げさに背伸びをしてみせた。

「じゃあ、お店の手前にある交差点を左に曲がろう。曲がってすぐのところに、小さいけれど神社がある」

 久野さんは、そこへ初詣に行こうと言った。夕希ちゃんはそんなところに神社があるとは知らなかったようだが、久野さんが小さい頃、夕希ちゃんの実父であるお兄さんと、何度も遊びに来ていた場所なのだとおしえてくれた。

「あの神社では、兄さんとよくかくれんぼをして遊んだ。今でもたまに、賽銭箱の裏に兄さんが隠れている姿を思い出す。そればかりか、彼はまだあそこに隠れ続けているだけなのかもしれないとも思ってしまうんだ」

 久野さんは、幼い記憶の中に隠れたままでいる兄に、きちんと報告をしたいのだという。そんな話をしながらたどり着いた神社は、彼が話していた以上にひどく寂れていて、お兄さんの姿どころか、神様の気配すら感じられなかった。本殿に灯った裸電球は、小さく揺れながら私たちを歓迎していたが、狛犬も鳥居もただ静かに、その存在を押し殺すばかりだった。

「なんだか、ちょっと怖いね」

 夕希ちゃんはそう言いながらも、好奇心のほうが勝っているように見えた。私は目を閉じて、そこにいるかもしれない義兄の姿を思い浮かべた。

 そのとき、瞳の奥の方で、寂れた境内に当時の色が蘇った。鳥居は赤々とそびえ立ち、狛犬は苔一つ纏うことなく、灰白い体を凛と奮い立たせていた。

 その隙間を縫うように、二人の少年が参道を駆けていた。そのうち、メガネをかけた少年が灯篭に顔を押し付け、間延びした声で数を数え始める。背の高い少年は足をしのばせて、賽銭箱の中に身体を押し込めた。

   もーいいかーい。
   まーだだよー。

 すっかり隠れてしまっているのに、背の高い少年は「まだだよ」と繰り返す。

   もーいいかーい。
   まーだだよー。

 狭い賽銭箱の中で、少年の背はどんどん大きくなっていく。まだだ、まだだと言いながら、長い手足を窮屈そうに押し込める。メガネをかけた青年は、歌うように問いかける。

   もういいかい? もう僕は、許されたかい?

「原田さん?」

 ぽん、と肩を叩かれて、私はハッと目を開ける。そこには心配そうにこちらを覗き込む夕希ちゃんの顔があった。

「……なんでもない」

 私はふっと笑ってそう言うと、目の前の鈴緒に手を添えた。

「さあ、お参りしましょう」

 ガラガラと盛大に鈴の音を鳴らし、私たちは揃って両手を叩いた。

「二年参りで僕たちが一番乗りだ」と得意げに久野さんが言い、「今年はきっと、この辺りで一番大きな福が来るね」と夕希ちゃんも笑う。幸福の定義はわからないが、こうやって大切な人と笑いあえる瞬間はきっと、「幸せ」という言葉でしか表現できないのだろう。そんな二人に向き直って、私はぺこりと頭を下げた。

「久野さん、夕希ちゃん。改めまして、今年もこれからも、ずっとずっと、よろしくお願いします」

 静まり返った神社から、三人で過ごす新しい時間が始まろうとしていた。

<了>


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