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僕の明日を照らして|瀬尾まいこ

残業調整のために10時出社の今朝。ゆっくり起きていい日ほど早く目が覚めてしまう。窓の外から青っぽくひんやりした光が差していて、暖房の音だけが部屋で鳴っていた。Kindleで昨日購入したこの本を読み終わって、8時14分。そろそろ準備をしないと間に合わない。

この本読んだのは初めてではなくて、おそらく発行された2010年に読んだはずなので、今から12年前に一度読んだことがある。そのとき私は高校生だったか、もしかすると大学に入学してすぐだったかもしれない。高校生までは母の影響で割と本を読んでいた。中でも瀬尾まいこさんの本は、読んだことがない本がないかすべてチェックして網羅するほど好きだった。きっかけは温室デイズで、当時中学生だった私に刺さりまくり、感動したことを覚えている。また、これは大分後になってだけど、幸福な食卓の実写映画を観た際に、自分が昔よく訪れていた場所が映ったときはすごく興奮した。

ただこの本だけは、当時の私には理解できず、瀬尾まいこさんの本の中で唯一モヤモヤした気持ちが残った本で、他の本とはちがった意味で印象に残っていた。

何がきっかけだったか思い出せないくらい唐突にもう一度この本を読みたいと思った。通勤中にKindle版が売っていることを確認してポチり。どういう話だったかはよく覚えていなかったが、ぼんやり虐待の話だったよなあということと、当時感じたモヤモヤの感覚を思い出しながら読み始めた。

高校生までは学校の図書室だったり、母が通う図書館で本を借りては読んでいたのだが、大学入学と同時に実家を出てからは読書の機会もなかなかに減り、今回も小説を読むのは半年ぶりだった。それでも瀬尾まいこさんの文章は読みやすくて、2時間半くらいですべて読み終わってしまった。昔読んだ時はこんなにすぐに読み終わっただろうか。

読み終わって、以前に感じたもやもやは私にはなかったし理解できない内容でもなくて、12年の年月で自分自身がたくさんの経験をしたんだなあということと、成長を感じた。何かを理解できるようになるってすごく嬉しい。

嬉しい気持ちの勢いで思ったことを少しだけまとめてみようと思い、noteに登録してみた。読書感想文は大の苦手だけど久しぶりに書いてみようと思う。この本の感想というよりは、読んで私が考えたことをまとめた感じ。

家族

お母さんって子どもにとってどうしてこんなにも鬱陶しくて、甘えられる存在なんだろう。隼太の場合は特に優ちゃんが継父であることが大きいのかもしれないが、お母さんってつくづく損だなと思ってしまう。隼太は決してお母さんを嫌いなわけでない。悲しませたくないし、期待に応えたくて頑張ってきたんだけど、最後はダムが決壊してしまって今まで甘えたかった気持ちとか、我慢していた気持ちが溢れてしまったんだろう。お母さんの愛情って絶対必要なはずなのに、なぜか煙たがられる。でも都合よく求められる。自分が子どもだったときを含めてそんなことを思った。

普段我慢している子どもは、自分のことは自分が解決しなければいけないと思いがちなのではないか、と思う。かくいう私もそんな子どもだった。両親が喧嘩ばかりしていて、一番の悩みがそれなので、他の悩みはそんなに大したことがないと思っていたし、気分が落ちた時はいつか浮上するはずと思って耐えた。実際に浮上できたし、メンタル面で誰かにヘルプを出したことはない。そんな中でお母さんから心配されると、大したことじゃないから心配しないで欲しい。そんなことより自分のことを心配してよ。と、鬱陶しく感じてため息を吐くばかりだった。きっと本当はお母さんからの優しい言葉が欲しかったし、弱音を吐きたかったし、1番は両親に対して怒りをぶつけたかった。心配してる場合じゃないだろ、という気持ちだった。

隼太にとってのお母さんはきっと大好きな存在で、最も甘えたい存在だったのだろう。お母さんがいない夜は本当に悲しくて寂しかったに違いない。それを救ってくれたのが優ちゃん。1番の辛さは独りになることだった。優ちゃんに対してはお父さんではなくて友達として接しているように感じた。お母さんとは全然違う関係性。しかも自分を殴ってくるような人だから、優ちゃんの前ではいい子でいる必要もなかったのだろう。良い意味で。宮城さんに数学を教えるように、優ちゃんの暴力を抑える努力をしただけ。隼太は何かを人に教えたり、助けたりすることが得意なんだと思う。問題を解決する力に長けている。

男兄弟がいない私には父と息子の関係はよくわからない。私にとっての父は困った人、人の気持ちが分からないかわいそうな人で、でも身体が大きくて怖い存在だった。隼太と優ちゃんのような関係性では全然なかった。親子っていろいろな形があるんだろうけど、私の中の親子関係って人間関係の中で1番難しいものだと思う。

理想の家族ってどんなだろうと考えるけど、あまりしっくりきた試しはない。少なくとも、喧嘩ばかりするような家ではない。一緒にいなければ喧嘩なんてしないのにって思ったこともあるが、隼太のように独りの夜に泣く日もあるのだろうか。私は一人暮らしを始めてから本当に色々なことから解放されて最高の生活になったので、隼太の気持ちは理解できるが共感できない。それは年齢的なところが大きいのだろうけど。私は家族に大切にされていないとは思っていなかったけど、家族と一緒にいたいとは思えなかった。やはり友達といる方が楽で、だから隼太と優ちゃんの関係は親子じゃなくて友達のようだと思うのだと思う。血が繋がっていなくて、自分を1から育てた人でないという距離があるからこその甘えだったり、赦しがあると思う。

やさしさ

優しくすることは簡単だけど、優しくなるのは難しい
優ちゃん

優ちゃんがこんなことを言っていた。自分のことを優しい人間だと思えないのは、きっと心の中でたくさんの人を殴ってきたからだろう。隼太も自分のことを優しいとは思っていなくて、関下の言葉にびっくりしていたけど、優しいってなんだろうと思う。優しいって自分自身に思えなくても、優しくされた人がそう思ったときに、それを否定する必要はないのに。

本当の優しさは何だ。隼太のお母さんは優しい。優しいけど、その優しさは隼太を傷つける。それは優しいと言えるのか。優ちゃんは殴る。殴るけど優しい。その優しさは隼太を救う。でもそれは優しいとは違うのか。

私は、完璧に優しい人間なんていないのだと思う。誰かの優しさに傷つけられたり救われたりしながら全ての優しさが優しさとして成立して、全ての優しさが正義ではない。

だから、自己犠牲の精神を嫌う。やりたくないのに、その人のためを思って何かをするというのは、恩着せがましい。自分が自分のためにその人を救うし、手を差し伸べるし、声をかける。それで良いと思う。私が何かしてあげてるのに、は優しさではないのではないか。そういう意味で隼太と優ちゃんは優しいと思う。自分のために動いて、それによって救われている人がいるのだから。

正しさ

正しさについても考えたい。正しいことというのは結局誰が決めたもので、誰に対して正しくいなければいけないのだろう。隼太のお母さんは働いて、隼太が困らないように頑張っていた。優ちゃんは隼太を殴らないように努力していた。隼太はお母さんに心配させないように振る舞って、優ちゃんが自分をコントロールできる方法を一緒に探してあげた。きっとそれぞれの正義のもとに動いているはず。殴ることは正しくないけど、殴ってはいけないと思うことは正しい。でも隼太はお母さんに対して寂しさを抱いていたし、お母さんは優ちゃんに失望した。

正しさには一般的な意味が強くて、結局個人個人の気持ちを考えると正しいことをすることが正しいわけではない。正論が解決に繋がらないこともある。

誰に対して正しくいなければいけないのか、時と場合によるだろうが、間違いなくいつでも自分に対して正しくいることが重要だと思う。自分に対して正しく行動することだけが、自分を救える方法だ。

私の考えが“正しい”わけじゃないし、すべてでないことはわかっているけれど、自分が自分を受け入れて自分に対して素直に正しいと思えることをすることで救われることはある。

そういう意味でやはりすべて「自分」なのだと信じている。

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