エッセイに憧れて

本屋に足を運びました。
本屋は良いです。時間の流れがぴたっと止まる。いろんな文字やイラストが目に入ってきて、様々な世界を見せてくれます。
昔から本屋にいるのが好きでした。社会人なりたての時なんて、本屋に入って一時間半くらいはいた覚えもあるくらいです。
けど、大抵、本を買わないことが多い。本当は買いたいんですけど、結局買いたいものが多すぎて、決断ができず、帰ってしまうというのが私のパターン。ただ、ただ、本屋に申し訳なく思います。

本題に触れます。本屋なだけに(意味不明で面白くないのはご愛嬌)。
本屋にいた中で、エッセイというジャンルをちょっと立ち読みしました。
本屋さん、ごめんなさい。
買いもしないくせにと罵ってください。
今度、倍にして、買いに行きます。

そもそも私はエッセイだとかそういった定義も知りませんでした。
エッセイとは
 ・特定の文学的形式を持たない
 ・書き手の随想(思ったこと・考えたこと)を思うがままに書く
というものだそうです。
え、日記じゃない?って思いましたが、それなら楽しそうと思って、今日から書いてみたいなと思い、久々のログインとなりました。

ということで、今回のテーマは

SNS

です。

その名の通り、Social Network Serviceの略。
もはや知らない人はいないですよね。気づいたら私もSNSに毒された人間になっています。今や報道機関も取材に足を運ばず、SNSの情報垂れ流しというのもよく見る光景になってきました。社会までも毒されているのではないかと心配になるレベルです。はい、心配はしてません。
ただただ、残念に思うだけです。はい。

話は戻して、SNSに対して思っていることは、
 ・あらゆる社会のいろんな側面を見ることができる不思議な世界
 ・嘘も正義もすべてが入り混じった混沌とした世界
 ・自分にとっては楽しい世界であると信じた世界
といったことでした。過去系であるということは、と詮索した方はいらっしゃいますよね。えぇ、その浅はかな邪推はやめていただきましょうか。
その通りです。楽しいだけではない世界です。

これが私のSNSの道

私のSNSの歴史はmixiから始まります。
その頃から私はSNSにどっぷりです。mixiでは日記を書き、そのコメントが来るシステム。フォローして仲良しを作っていく。フォローした人の人となりを紹介するシステムもありました。
それでどれだけ迷ったことか。あの当時、フォローしてくれた人には紹介文を書くのが当たり前でその度に私は疲弊していたのです。

理由は簡単。嫌いな人を紹介しなければならないから。
当時は匿名でもなかった、サークルに所属していた、その先輩から紹介文を作成してもらっているというコンボを食らってしまうと避けられない対応でした。心にも思っていないことを書いては自分に嫌悪感を持っていたことが思い出されます。
それでも、やめることはできません。人間ってほんと単純。コメントがつけばつくほど、面白いし、うれしいし、依存してしまう。
自分に自信のない人ほど、SNSには溺れるのではないかとたまに思います。
私がそれです。

私のSNS年表はmixi→Facebook→Twitterといった流れです。
年表じゃねえ!とツッコんだ人、正しいですが、気にしたら負けです。はい。

今でもFacebookはアカウントとしてはありますが、公表する気はありません。
これまた理由は簡単。実名で面白くないからです。
実名なんて面白くありません。思っていることを言えないこんな世の中じゃ、ポイズンだからです。

で、結果、Twitterに行きつき、疲弊するといった結果が待っておりました。
えぇ、みなさんよく言いますよね。疲れるくらいならやめればいいと。
これがやめられないんです。タバコと同じように中毒成分が含まれているんです。
承認欲求という大きな成分が。

匿名性と承認欲求

Twitterってかなりの匿名性。こんな生き方いいの?本当にこんな自分でいいの?嘘もつけちゃう。
なんていいものなのって思って、足を踏み入れたら、そこは狂人が入り混じり、斬り合いを行いながら切磋琢磨し、人を蹴落として喜ぶサイコパスもいる世界観でした。
いや、それだけが全てではありません。匿名性の中で良い出会いもたくさんあります。自分の周りはかなりいい人が多いです。

でも、やはり匿名性というのは攻撃力を高めるようで思想系の話題になると両極化することはよくあります。
私はそれが面白くて、首を突っ込んだ人間。
いや、本当に面白い。いろんな考えの人がいるから勉強になるのです。
実名制のFBにはなかった面白さでした。元々は情報収集目的で始めた推し活の手段でしかなかったものがいつの間にか、その匿名性による攻撃性を好み、自分もその中で他人からの承認を得るため、日々努力をしてしまっている承認欲求の権化と成り果てていました。

人は怖いもので慣れていくと自分を見失います。
実際に自分を見失っていました。
気づけば、生物には確実に平等に与えられた時間というものについても、かなりの割合を奪われていきました。それとともに通信量も巻き上げられていきました。

さようならという選択

奪われていく時間と承認欲求を天秤にかけて、一生懸命考えて(1時間ほど)、結果としてフォロワーを沢山持ったアカウントを捨てる決断をしました。
自分がこの場にいることの意味を考えた途端に頭の中に天使と悪魔がいて、議論をし、今回は天使が勝ったのです。いきさつはこうです。

天使「あなたがこうしてクソツイをして、何に役に立つの?」
悪魔「みんながいいねをくれる、気持ちいい、それでいいじゃねえか」
天使「いいねをもらって、あなたの人間性が上がるの?」
悪魔「当たり前だろ、いいねを多くもらうということはいい人間ってことだ」
天使「人は嘘をつく。うまく利用されて、時間も浪費して、結果得たものはあるの?そりゃいい人とつながれた。それだけは違う形にして、この多く持った、大半はよくわからない業者垢のアカウントなんて捨てたほうがいいじゃない」
悪魔「業者垢で何が悪い!数は正義だ!承認されて喜ぶことの何が悪いんだ!それに業者垢が誘ってくれるから今の自分がある!」

ってまぁ、半分嘘で半分本当ですけど、こんな感じで好きな人だけ残す方法をとって、話せればいいってことにしました。
その結果に行きついた矢先に揉め事に巻き込まれて、そのせいでやめたとか言われているかもしれませんが、そんなことはなかったのです。
理由は天使が勝ったからです。業者垢が多かったのが敗因です。悪魔の。

SNSという道具

SNSは時として自分を傷つける道具にもなるし、自分を救う道具にもなります。自分の経験としてSNSの中で止められたかもしれない事がありました。友達に起きたこと、それは自分が毎日その友達にSNSを通してでも話していれば、止めれたのではないかと思ったことがあります。
後悔は先に立つことはない。もしもあの時ってのは「今」には存在しない。
だからTwitterをやっているときには言葉は気を付けていますし、その投稿を嘘と断定して扱うこともしません。
自分の言葉が相手に対して、どのように映るかわからないから結構、選んではいました。
それでも人は過ちを繰り返します。私も暴言だけになることもありました。
やはり人はそんなに一貫した態度をとれないものです。
だからこそ、寛容さを持たないといけないと常日頃思います。
SNSをやっている人たちはおそらく大半は自分が承認されたい思いでやっていると私は思います。
かくいう、自分がそうですから。

承認欲求との向き合い方

自分にあった承認欲求を保つ手段は何もツールだけではないと思います。
そのツールをどのように使うかで保てる承認欲求もあるなと最近になってはよく思うようになりました。
そして、この世界に生きてみると承認欲求より自己を認めてあげること、すなわち自己肯定が大事なのだと痛感します。
相手から認められる自分より、自分を認められる自分のほうがいい。
それは難しいからこの世界で承認されることを代替の手段として見出す人も多い気がします。
そこから離れられるようになればいいのにと思いますが、私も抜けられていないし何とも言えねぇ(北島感)。
現実社会はストレス社会なので、GABAでも食って寝たほうがいいですね。

終わりに

結果としては、まだTwitterの世界に存在していて、今は快適に過ごせています。
僕をディスしている人にもその人を愛して生んだ親がいる。
その人を愛している人も、友達としてみている人も。
自分のSNS上での見方なんてのは一方向だからすべてを分かり合えることはまずはないと思ってほうがいい。匿名性ならなおさらのことです。

嘘かどうかがわからない世界で楽しくやれるようにやること。
それこそがSNSの最大の課題だなってつくづく思います。
要は、どのように信頼、信用すればいいかということ。

おそらくは一生かかっても無理ですね。
はい、我々のような罪深い人間である限りは。

では、お疲れ様でした。とりとめのない駄文、読んでいただきありがとうございました。

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