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掌編小説【酔いから覚めたら】


「お父さんね、アルコール依存症なんよ。」


 馬鹿だと思った。私もお酒は大好きだ。クタクタになるほど働いた後に飲むお酒は何よりも美味しい。

 だからって、体を壊すほど飲むなんて、馬鹿な人がすることだと思っていた。そんなアルコール依存症に、父がなるなんて。



 就職して実家の大阪から東京に出て来て三年。仕事にはだいぶ慣れたし、結婚するかはわからないけど恋人もできた。実家に帰るのは好きだったので、年四回くらいは長期休みをとって実家に帰った。その時は家でも、外食する時でも普通に家族で飲んでいた。

「もう社会人なんやから、税金とか保険とかちゃんとせなあかんで。お母さんにちゃんと教えてもらえよ。」

「ん~。」

 普段は比較的無口な父が酔っている時は、母が風呂に入って、リビングに私と父だけになった途端によく喋る。大抵はあまり聞きたくない話題か、私にはよくわからない野球の話なので、いつも適当な相槌を打っていた。


「だからね、入院することになってん、二週間くらい。さすがにそろそろ言っとこうと思って。」

 いつも通り仕事を終えて、華金だからと上司のおすすめの店で飲んで自宅に帰って来た時に、母からの電話でそう伝えられ、心地よかった酔いは一瞬で覚めてしまった。

「あ、そう…なんや。なんか手伝う?」

 結構衝撃的な内容だったけど、母の声が落ち着いていたからか、普通に聞き返してしまった。

「帰れるの?そっちも忙しいんでしょ?大丈夫よ無理せんで。」

「そっか、わかった。まあ帰れそうなら帰るわ。」

 

 実家に帰れたのは、母の電話から一ヶ月ほどたったお盆のころだった。ドキドキしながら帰ったが、あまり変わりのない父の姿に「なんだ、案外大したことじゃなかったのかな」と、私はほっと息をついた。


 退院したとは言っても、数日に一回は通院しなければならないらしく、私が帰って来てから数時間もしない内に、父は出かけていった。

「本当は伝えるつもりもなかったんやけどね。思ったより酷くなっちゃったから。」

 お土産に買って来たお菓子をテーブルに並べて、母がコーヒーを入れてくれた。

「毎日のように飲むし、酔っ払ったら暴れて、泣いて喚くし。ほら階段の壁、穴空いてたでしょ?あれ、お父さん。

…なんとかお願いして、やっと病院行ってくれたわ。入院してくれてる方が静かで気は楽よね。」

 母は笑いながらなんてことのないように言ったが、やはり私は信じられなかった。だってあの父が、まさかそんな状態になっているなんて。

 その時、なんとなくつけていたテレビで、缶ビールを美味しそうに注いで飲むCMが流れた。

「ほんまに、こんなCM止めてくれたら良いのにね。」


 アルコール依存症は数ヶ月、五年、十年と断酒ができても、ふとしたきっかけで一滴でも飲んでしまえば再発するらしく、中々治療は難しい。家族が24時間見張ることもできないし、お酒なんてどこでも買えてしまうので、隠れて飲むことも簡単にできる。


 その日の夕食にお酒は出なかった。時折ビールやチューハイのCMが流れると、なんとも言えない空気が流れたけれど、私は気づかないふりを続けた。

 食後、母が風呂に入ると、酔っていないはずの父は饒舌に喋り出した。

「病院な、変な人いっぱいおったで。アルコール依存の人以外にも、いろいろおったわ。」

 父が入院した病院は依存症のほか、うつ病や精神病の人もいたらしい。入院中にどんなことをしたのか、いろいろ話してくれたが、私は父に背を向けてスマホをいじりながら、いつも通り適当な相槌を返していた。すると父が喋りながら鞄をガサゴソといじる音が聞こえて来た。ちらっと振り返ると、父は私に背を向けたまま、仕事用のカバンを抱え込んで、隠れるように丸くなってお酒を飲んでいた。

 気づいた瞬間ドキンッと心臓が跳ねた。入院して断酒したはずだ。もう飲めないと言っていたはずだ。なのに、なんで?

 やめろと怒鳴ってやろうと思ったのに、私の口は一切動かず、スマホを持つ手は冷え切って震え出す始末で。ようやく出て来たのは、なんなん?というか細い呟きだった。

「なんでやろなぁ…」

 そう言った父の背中は、昨年病気で痩せ細って亡くなった祖父なんかより、ずっと小さく頼りなく見えた。


 両親が寝た後もなんとなく寝れなかったので、もう酒は隠していないかとリビングにある父の鞄を漁ってみた。酒はもうなかったけど、手帳が出て来た。悪い気はしたが開いてみると、そこにはいつもの父の字より少し汚くなった小さな文字で、たくさんのことが書かれていた。


・会社でいじめのようなことが続き、つい酒に逃げてしまった。

・体が思うように動かない。悔しい。

・妻と娘に申し訳ない。家族のために頑張ろう。

・久しぶりに家族で旅行に行きたい。


 全然知らなかった。

 頑固だけど子供みたいに正義感が強くて。約四十年、土日ですらちょくちょく仕事に行っていて。でも私には仕事の愚痴なんてほとんど零したことのない父が、こんな風になっていたなんて。全く、これっぽっちも知らなかった。


「本当に馬鹿じゃないの。仕事なんてやめちゃえば良かったのに。」

 私は申し訳なくて涙が止まらなかった。お父さんはこんなに苦しんでいたのに。家族のために辛い仕事に行き、挙句体と精神を壊してしまった父に、私はやめろの一言すら言ってあげられなかった。

 泣きすぎて父のノートを濡らしてしまい、慌てて拭いてからノートを元の場所に戻した。


 東京に戻る前日、私は父の日課になったらしい散歩に着いて行くことにした。小学生の頃、よく一緒に練習した近所の公園を通りかかると、小さな男の子が父親と一緒にキャッチボールをしている。

 元気だなぁなんて思いながら眺めていると、父の足元にボールが飛んできた。

「こっちなげてー!」

 男の子は楽しそうに両手を広げて叫んだ。

「ええよー!ほいっ!おぉ、上手やなぁ!」

 父が投げたボールをしっかりキャッチした男の子は、ありがとうとお辞儀して、またキャッチボールを再開した。そういえば父は、昔野球をしていたんだと話していたっけ。

「久しぶりに投げたなぁ。肩痛いわ。」

「孫ができたらキャッチボールできるの、お父さんだけやねんから、練習しててや。」

 やっと仕事に慣れて来たというだけで、後輩の指導や新しいプロジェクトに悪戦苦闘し、結婚なんてまだまだ先だと思っていた。ましてや、子供なんて考えたこともなかったのに、自然とそんな言葉が出てきて、自分でも少し笑ってしまった。

「せやなぁ、頑張るかー!」

 そう言った父の顔は、男の子と同じくらいキラキラしていた。


「依存症なおったらな、全国の学校回ってボランティアで依存症の講師してみたいねん。」

 父の夢なんて初めて聞いた。正直、昨晩の父の姿を見て、想像以上に深刻だと気づいてから、本当に治るのか、もしかしたらこのままダメになって、死んでしまうんじゃないかと私は不安だった。でも父はちゃんと前を向いてくれていたらしい。


 依存症を克服するのは、とても時間がかかるだろうけど、私が結婚して子供を産んで、その子がキャッチボールができるようになるのだって時間がかかるんだから、ちょうど良いだろう。


 「じゃあ、お父さんがほんまに酔いから覚めたら、私の子供も連れて、一緒に全国回ろうかな。」


 昔に比べてかなり遅くなってしまった父の歩みは、それでもしっかりと前を向いていた。

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10分程度の朗読用に書きました。
面白い、面白くない、こうするともっと面白くなりそう等、ぜひご自由にコメントいただけますと幸いです。

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