「宵宮」
暗闇で水音が聞こえた気がした。
目を覚ますと、森の夜が始まるところであった。
身体の下敷きとなって蒸れた芝から、ムンと猛々しい生命の匂いがして顔を背ける。
傍に目をやると、藍色の空と一体となった川のほとりに女が一人。
見れば、小さな包みのようなものをひとつ川へ流している。
「なにをしているんだね」
そう尋ねると、女は私を見上げてただ微笑みを返しただけだった。
流れていく影をぼんやりと目で追う。
水の流れに身を任せて、月がのぼる方へ。ずっと遠くへゆっくりと進んでいる。
「こうして月灯りの中へ吸い込まれていくのだ」と、以前どこかで教わった気がした。
川の向こう岸には、ぼうと宵宮の明かりが見えていた。
流れに乗って見えなくなる影を、見失わぬよう目をこらす。
遠くにやってはいけない気がして、呼び戻そうと必死で叫んだ。
己の声に驚いて布団の上で目覚めると、腹部にはかすかな痛みが残っている。
自分が女であると思い出した。
あの川を流れていったのは我が子であったのだ。
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体に力が入らぬまま、白み始めた天井をぼんやり仰いでいると、冷えた頬に生ぬるい呼吸とひげが触れた。ひげの持ち主の影が、ぬうとこちらを覗き込んでいる。
先の雨夜からわが家に居座る猫。腹が減っているようだ。
その厚かましい催促を口実に、仕方なく重い体を起こし台所へ向かった。
窓の向こうでは雲が集まり、空を隠し始めている。
川の流れはやがて海に、そして天に上り廻る。
今ひとたびの雨を待ちながら、消えた影を思う。
ままならずとも、今日も暮らしは続いていく。
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※この作品は、夏目漱石の「夢十夜」をモチーフに創作したものです。
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