ずっと感じていた違和感の正体と、これからのこと
2024年の始まりに能登半島地震が起こり、SNSで飛び交う様々な意見に気持ちが飲み込まれていき、危機感を覚えSNSを1か月ほどお休みしました。
SNSを休んでいる間、「どれだけInstagramに生活を侵食されていたのか」ということを痛感。その中で、感じていていたことを素直に言ってしまえば「SNSと離れた方が心穏やかに過ごせる」ということでした。
SNSがなくても生活は成り立つ。
でも、ふとした瞬間に「これフォロワーさんに伝えたいな〜」と思うことや、誰かのことを思い浮かべる瞬間もたくさんありました。
このまま「おまめ」をやめてしまうのか、また「おまめ」に戻るのか。
決して簡単な選択ではありません。1か月考え続けたけれどいまだに答えは出ていません。
ただ、3年間続けてきた「おまめ」を中途半端な気持ちで突然終わりにするのは違うと、ひとまず復帰することにしました。
まずはストーリーズを再開したものの、どこかひっかかるものを感じていて……。
そのひっかかりは、今に始まったことではなく、Instagramを始めた当初からずっと感じていたようにも思います。
SNSを休んでいる間に考えていたことと、復帰して気づいたこと、これからの発信について今の考えを書いておこうと思います。
Instagramは、初めての居場所だった
なんとなく長男の発達に違和感を感じ始め、「どこかに成長の記録を残しておきたい」とアメブロを始めたのが「おまめ」の始まりでした。
これまでの成長の様子を書いていくうちに見てくれる人が増え、書けば書くほどランキングが上がっていく様子に喜びを感じるようになっていきました(当時のアメブロは閉鎖済み)。
もっといろんな人と繋がれたらという気持ちが芽生え始めたとき、同じ子どもの発達に悩みを抱えるママさんから誘われたことをきっかけに、Instagramを始めました。
どんな投稿をしたらいいのかわからなかったので、まずはアメブロと同じような内容を投稿。すると、どんどんフォロワーさんが増えていき、それまで同じ境遇の人と知り合うきっかけがなかった私にとって、Instagramは初めて”仲間がいる“場所でした。
これまで誰にもわかってもらえなかった悩みや不安に、こんなにも共感してくれる人がいるなんて……。
現実ではなかなか同じ境遇のママや子育ての悩みを共感できる友人がおらず、孤独だった私にとって、Instagramは大切な居場所となりました。
SNSでの発信は、想像以上にしんどい
しかし、SNSで発信を続けるのは楽しいことばかりではありません。
どうしても数字に左右されてしまう。
自分が伝えたかったこととは違った受け止め方をされてしまう。
SNSには書いていないことを勝手に想像されてしまう。
たくさんの人との交流の中で、関係がこじれてしまうこともありました。
何度も辞めたいと思いました。
今でも、私はSNSに向いていないし、センスもなければ魅力もない。私よりも素敵な発信をしているひとがたくさんいる。私なんて……、と考えてしまいます。
なんとかやめずに続けられてこれたのは、「いつも参考にしています」「励まされています」「自分だけじゃないと救われています」といった応援してくださる方たちがいるからです。
でも、今は温かいメッセージをバネにすることができなくなっています。
ネガティブ感情に疲弊する
ネガティブなことを投稿すれば、私の気持ちを超えるネガティブな感情をぶつけられることがあります。次第に、他の人たちからのネガティブな言葉を聞くのがしんどくなり、できる限り前向きでポジティブなことを投稿するようにしました。
すると今度は、子どもたちの成長などポジティブな内容に対して「うらやましい」「うちの子はできない」といった、私には答え辛く受け止めきれない言葉が届くようになりました。
ネガティブな言葉を引き寄せているのは、私自身。
子どもの発達という“悩み“を投稿している限りは、いつまでもこのネガティブは付きまとう。
そう気づいてからは、フォロワーさんの反応を気にしてしまい、投稿を作ってもアップできないことが増えていきました。
「おまめさんのアカウントなんだから、好きなことを投稿したらいいんですよ」
そう言ってくれる人がたくさんいます。
でも、ネガティブな反応が一つでも返ってくるとそれだけで「投稿しなければよかった」と感じてしまう。100人の励ましや応援より、一人のネガティブな言葉のようが強い力を持っている。
これを跳ね除けられるくらい自分に自信があればいいのですが、自己肯定感が低い私は自分で自分を肯定してあげることが難しいです。
相談を聞くことの難しさ
こういう発信をしているので、同じような境遇のママさんから相談や悩みを聞くことが多くあります。自分自身も経験してきたことなので、真摯に答えたい。できる限りDMにはお返事をしています。
しかし、文字だけで人の悩みや不安、ときには愚痴を聞くのは、対面で話を聞くよりも数倍難しいです。情報も少なく、どうように子どもの発達を受け止めているのか、相手のパーソナリティがわからない中で、相手の望む言葉を返さなければなりません。
感謝の言葉が返ってくることがほとんどですが、既読/未読スルーなこともあります。そういうとき、「時間を返して欲しい」と感じてしまうのは、私の心が狭いからなのでしょうか……。
結局これも、自分が発信していることから生まれるもので、SNSを続けている限り、こういった負の側面をゼロにすることはできないのでしょう。
この方がどんな方かは知らず、たまたま流れてきたものなのですが、とてもハッとさせられました。
対価が欲しいと思ったことはありませんし、私の経験や言葉がその人にとって少しでも役に立つものであったのならそれで十分です。
ただ、愚痴に限らずネガティブな話を聞くこと自体が、大変なことだということをどれだけの人が感じているのでしょうか。
もちろん嬉しいことも楽しいことも
もちろん楽しいことも嬉しいこともたくさんあります。
子どもの成長をお互いに喜びあったり、日常の中でInstagramで知り合ったママさん、パパさんmお子さんのことを思い出し考える瞬間は何度もあります。
Instagramは、私の生活の一部になっていて、切っても切り離せないものになっているのです。
嬉しいことがあれば報告したいし、辛いことがあったら励ましてほしい。
悩みがあったら相談したいし、かわいいものやおいしいものを見つけたらシェアしたい。
SNSで出会った人たちだけど、ちゃんと”そこ”にいて、リアルに存在を感じている。目に見えない不思議な繋がりだけど、その繋がりに支えられています。
ここまで続けてこれたのは、応援してくれるひと、励ましてくれるひと、一緒に頑張っている仲間がいてくれるから。これは紛れもない事実で、いつも感謝しています。
子どものことを発信するということ
私を含めて家族の顔出しはしないと決めています。
そのため、顔出しでSNSで発信している人達に「どんな考えの元顔出しをしているのだろう」「子どもはどう考えているのだろう」と、ずっと気になっていました(特定の誰かに対して感じているというよりも、ざっくり全体に対してです)。
顔が見えるからこそ伝わることがあるし、他の方の投稿を見ているとやはり顔を出している投稿方が気になるし、目が惹かれる。リスクはあるけれど、それだけ受け取れるものも多いのでしょう。
私も「うちの子かわいいから、みんなにも見てほしい」と思うことは多々あります。音声だけでも投稿できたら、伝えられることがふえるのになと思うこともあります。
でも、我が家の子育ての方針で「子ども自身が自分の意思でめられないことを、親が勝手に決めない」と決めているので、子どもの許可なく顔出しをすることはありません。
また、これから就学をし、悩みはより個人的で限定的なものになっていくのだろうと思っています。関わる人も増えるし、長男のことを知る人も今よりもぐんと増えるでしょう。
子どもたちがSNSを使いはじめるのも時間の問題。
たとえ、長男がSNSに興味を持たなくても周囲の子どもたちははじめるでしょう。
それを考えると、最近は子どもの顔にモザイクをかけて投稿することにも違和感を感じ始め、持ち物や子どものために買ったものを投稿するにも気になるようになりました。
また、「将来、子どもが私が書いたものを見たときに悲しくならないように」と意識してきましたが、そもそも子どものパーソナルな内容を同意なしでSNSに投稿すること自体がよくないのでは?と考えるようにもなりました。
顔出ししなければ、それでいい?
「そもそも、子どものパーソナルな話を本人の許可なしで勝手にSNSに発信することはアリなのか?」
めちゃくちゃ今更な話ですが、これまでの自分の過去の投稿を含めて、子どもが見たときに悲しんだり、辛くなったりしないだろうか。
自分が子どもたちの立場だったら?
ショックを受けるんじゃないかと思うのです。
どこまでが「私の気持ち」で、どこからが「子どもの話」なのか。
どこに線を引けばいいのか、そもそも線を引けるものなのか。
どういう表現ならいい?ポジティブなことだけしか書けなくなる?
そうなったとき、フォロワーさんたちは何を感じる?
答えは出ていません。だから、投稿できずにいます。
ストーリーズでも、生活感のあることは控えています。そのうち、過去の子どものパーソナルに関する投稿を全てアーカイブするかもしれません……。
Instagram>子どもとの時間
ストーリーを更新するため、DMやコメントを返すために、ずっとスマホを持っていることにもずっと罪悪感がありました。
子どもに話しかけられてもスマホに夢中になっていて話し半分で対応してしまうこともあったし、仕事してるの!と子どもを待たせてしまうことも幾度となくありました。
子どもより、スマホを見ている時間の方が長かったかもしれません。とても反省しています。
SNSにあげるための写真を撮っていることも少なくなく。
写真を見返すと、子どもの表情が写らないようなが画角の写真がたくさんあって、私は何の写真を撮っているのだろうと親としての自分に幻滅します。
プライバシーを配慮したい、でも、より日常をシェアしたいという気持ちもある。どっちつかずなまま中途半端にやってきた結果です。
中途半端な気持ちだから、名前や顔を出している人が「どういう考えのもとでやっているのか」と気になっていたのでしょうね。
顔出しの件だけでなく、この3年を振り返ると、全てにおいて中途半端だったように思います。
復帰すると決めたものの、今後どういう形で発信を続けるのか、どういう内容を発信するのか、SNSとの付き合い方をどうするのか、何一つ答えを出せずにいます。
自分が何をしたいのか。
「おまめ」を続けたいのか、やめたいのか。
自分のことが、よくわからなくなっています。
おまめ
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