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視点を変えれば問題は氷解する

この世界はすべて、暇を持て余した神々の遊びなんですよね。

人間体験に没頭している時は、悩みや苦しみに囚われている時もありますが、それすらもすべて遊びのひとつ。

モンスターエンジンさんは真理を突きすぎていて、みんな笑っちゃうんだと思います。本当はみんな、心の底ではわかっているから。自分たちが暇な神々だということを。


本当は、私たちはみんなひとつの意識であり、そこからニョキニョキとニョロニョロみたいに「個人」として生えてきているだけ。


おおもとでは繋がっている。あなたは、私。通行人たちは、まるで赤の他人のふりをしているけど、それはそういう設定で遊んでいるだけ…!



この世の悩みや苦しみはすべて、「あなたと私は、別の存在」という、私たちがみんなで遊ぶためにつくりだしたドラマの世界の設定から生まれる幻想。


実際には、充足と愛と豊かさしか存在しない。


この真理が腑に落ちない間は、貧しさ、恐れ、不安からなかなか抜け出せない。そうやって、さまざまな感情を味わう個々の体験を、私たちのおおもとは面白がって鑑賞している。


鑑賞していると同時に、個の意識たちに対して、「好きなように、望む役を演じなさい。それに応じた舞台をちゃんと用意するよ」とも言っている。


おおもと意識は世界そのものだから、個体にはできないことをいともすんなりやってのける。個体が「あっちに行きたい!」と純粋に願ったら、それを叶えるように手配してくれる。


その手配が個体の目線からは「嫌な出来事」として感じられることもある。その「嫌な出来事」も、個体の「あっちに行きたい!」という願いを叶えるために、おおもと意識がもたらしてくれたものなのに。そのことが、個体たちには見えない。


ただ、おおもと意識の存在と役割を理解し、その手助けを信じることができる個体たちも増えてきている。

そういう個体たちは、おおもと意識の手助けの波を信頼して、身を委ねることができるので、あっという間に行きたかった場所に連れて行ってもらえる。


そういう人たちは、「私たちは、みんなでひとつ」という意識を常に保てている。個体として望みを出しつつ、全体をいつも思い出せている。みなもと意識と、個の意識との間を、行ったり来たりする頻度が高まると、波動が上がり、望む現実次元に移行するスピードが上がる。


ただし、「望み」が本心とずれているときは、叶わない。

この世界は、おおもと意識は愛の波がたゆたってできている。

本心とは、おおもと意識とシンクロしているので、愛に基づく「私はあなた、あなたは私」のワンネス意識と同調する望みはとても叶いやすい。

「誰かを傷つけたい」とか、「ほかの個体は辛くても私が良ければいい」とか、そういう望みは、抱くだけで苦しいし、ますますそういう苦しい望みを抱かせるような状況を新たに創造してしまう。


本当は、あの人も私も安心して幸せでいてほしい。

本当は、みんなで豊かになって一緒に遊びたい。

だから、望むときは、そういうみなもと意識と合う望み方をするといい。

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