一から作って食べるというライフスタイル
どんな事だって最初は分からないし怖い。
だから目を逸らしてやらなければそれだけの事。
現代は飽食の時代と呼ばれているしわざわざ自分で作らなくてもなんでも食べられてしまう。
だがしかしそのクオリティに問題がある。
自分が頭で思い描いた食べたいものがあるとする。外食、または中食でそれを完全な形で食べることは果たして可能だろうか?
例えば午前3時にパテ・ド・カンパーニュを貪り食いたくなったらどこの店がそれを提供してくれるだろう?
美味い店のを買い置いとけば良いじゃないか━━━━?
色々と意見はあれどやはり一番手っ取り早いのは自分の手で作り上げてしまう事なのである。
それが「今これをどうしても食べたい」にありつける一番遠くて近い道。
例えばパン一つにしてみても買いに行ったら早い話だが。
自作にこだわってしまうとここからも自作してしまいたくなる。
習うよりも慣れろ。
この論を地で行く。
失敗した方が上手くはなるはずだ。
自作も熟れて来ると一度に数品作れるようになってくる。
とりあえず手数を増やしたい。
料理が上手い人とは手数が多く一瞬で数品作ってしまうような人の事を指すのだと思う。
使う道具を精査し、正当に近道せずに調理する。
こうやって食材を目の前にして調理に集中しているだけで抱えてる悩みや不安などが消えていく。
忙しく調理しているだけで身が軽やかになり身体の動きが水のように緩やかに落ち着いていくのが分かる。
かと言って凄い事をしているわけではなく、ただレシピになぞらって正当に調理するだけの話なのだ。
実に手間と暇は必要となるがこれが楽しい。
文章も料理も同じで手を掛けてしっかりと仕込めば仕上がりに反映する。
料理の場合は文章とは違い一発勝負で手直しが聞かないと云うこと。
料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている
北大路魯山人
かの魯山人がこんなことを言っている。
そうなのだ。食べるは本能。本能を芸術に変えてしまうのだ。
料理は残してはおけないし香りも形も味もすぐに劣化してしまう一番身近にある芸術だとボクは思っている。
ただひたすらに完成を目指し━━━━
ゆっくりとたっぷりの愛情を注ぐ。
この何もなくただ孤独に料理と向き合う時間こそが自分にとっての趣味の時間なのだと再確認する。
ものさえ分かって来ると、おのずから、趣味は出て来るものである。趣味が出て来ると、面白くなって来る。面白くなって来ると、否応なしに手も足も軽く動くものである。
北大路魯山人
正にこれだ。
少しずつ集めた知識を結集させて、より良いものを作り出す。
そんな時間が至福なのである。
こんなものを発酵させて焼き上げている間にも腹は減るわけで。
ガツッとありモノで食事などを拵えてみたり。
手打ちのパスタなどをここでも使ってみたり。
パテを仕込む際に余らせた鶏のハツをトスカーナのレバーペーストのように潰して赤ワインソースと和え━━━━
鶏ハツのトスカーナ風トンナレッリ
トンナレッリというラツィオ州発祥の四角い極太パスタだ。
こういうので━━━━
酌をしながら料理のようすを伺いつつ時を過ごす。
レバーについてくる副産物のハツも無駄にせず美味しく変性させる。
食という錬金術に魅せられているのかも知れない。
どんな安くて食べ難い食材でも然るべき調理を施せば美味しく変化する。
こんな楽しい事はない。
パスタ版のラーメン二郎といったところかな?
ニンニクをガチっと効かせて塩分も強めなストロングなパスタに仕上がった。
この錬金術のクオリティを上げるにはやはり手間暇しかないのだ。
自家製のパスタを打つだけでもどれだけ仕上がりに充足感が出るか。
パン・ド・カンパーニュ
そんな事をしている間にパンも仕上がる。
上々な出来のハードパンだ。
そしてパテも焼き始める。
我が家のオーブンは年末年始の浦和料金所のように忙しく渋滞している。
適宜火を入れる。
このNOTEはレシピブログ的なものではない、食についての掘り下げや研究の成果を書き記すNOTEなのだ。
レシピならネットの海や料理本に記載されたものを使ったほうがまともだしそっちのほうが上手くできると思われるので割愛。
焼きあがり。
しっかりと圧をかけて冷やし固める。
するとどうだろう?
このきれいな角の付き方は。
この瞬間に熱さを感じる。
パテ・ド・カンパーニュ
鶏の正肉とレバーそして豚のひき肉を使いベーコンをあしらった田舎風のパテだ。
これが強烈に美味いの一言なのだ。
思いのままに分厚く切り━━━━
収穫を頂き候らう。
この瞬間の為に膨大な時間を消費する。
このようにまとめワインで愉しむ。
こういうおままごとはどうだろうか?
物凄くテンションが上がるとは思わないか?
これを自分が好きな人間に振る舞えたらもっと幸せな事なのだろう。