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「ブルシット・ジョブ」についてチャットGPTと議論してみた

さっきChatGPTと30分くらい、あれこれ対話を重ねてたんだけど、軽くラリーしただけで、あっという間に合計1万字超のテクストが生成されてしまって、まずそのことに驚く。しかもすでにして、そこいらの学生よりずっと賢い。

正しい引用方法がイマイチ分からず、そうかといってスクショでまるごと抜粋して晒すのも、さすがに気が引ける。さて、この「対談」をどうしたらいいものやら。必要なことは、後日調べるとして、今日のところはあくまで「感想」を書いてみる。今回は「ブルシット・ジョブ」を議題にしてみた。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(英: Bullshit Jobs:A Theory)は、アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーによる2018年の著書で、無意味な仕事の存在と、その社会的有害性を分析している。彼は、社会的仕事の半分以上は無意味であり、仕事を自尊心と関連付ける労働倫理と一体となったときに心理的に破壊的になると主張している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96

「ブルシット・ジョブ」と「まともな仕事」の区別すらもつかない人、少なくないはずだ。私がかつて務めた職場なんか、まさにブルシット・ジョブのテーマパークと化していたんだけど。個人的な体験も絡めてあれこれ質問を投げてみたのだ。

ChatGPTはまともな仕事の代表格として「医療」「福祉」等々を挙げてきた。

うーん…
AIが医師免許のテストを受けると、ほぼ合格してしまうってのは、周知の事実である。

だからその、AIを搭載した医療ロボットが登場した暁には、たちどころに生身の医師を凌駕してしまうのではないかな?

そう遠くはない将来、医療自体がブルシット・ジョブの方に分類される日も来てしまうのでは、これいかに?…と返してみたのだけど。「対人間同士での感情面でのサポートはロボットには代替できないので、それはない(意訳)」と返してきた。

やはりポイントは、コミュニケーション能力や人間的なスキル(相手の気持ちが分かる等)にあるらしい。完全な回答ではないにしても。関係性の知性を磨くことにこそ、ブルシット・ジョブ脱却の糸口があるのかもしれないね。もちろん個人の努力だけではなく、組織や社会全体の制度や風土の改善も同時に必要だろうが。

あと、以降は完全な私見を述べるが、世の中には、洗車を生業にしている人がいる。その人は他人の車をピカピカにして、喜ばれているのを生きがいにして生きている。その人にとっては、他人の車を洗い続ける、それが幸せの道である。この仕事は今のところは手作業だからこそ成り立っている。だが一方で、今後、技術の進歩と自動化の波にのまれて淘汰されるかもしれない。その可能性はわりと高いと思っている。だとしても、今望まれていることができればそれでいいのだ。当たってるか否かは横に置いとくとして、つまり、このような考え方もあるのではないだろうか?

というのも「ブルシット・ジョブが社会や人生を病ます」と、YOUTUBEで、とある経済学者が言ってて。それを聞いて私もいったんは、その意見に唸らされ、共感し、真に受けていたのだ。ところがChatGPTと対話をしていくうちに、おのずと違った観点が浮かんできたわけである。端的にこの経済学者(と、デヴィッド・グレーバー)への駁論として。

幸せの見つけ方が上手い人は、きっと、どんな場所でも幸せである。ブルシット・ジョブまみれの人生でも幸せな人は幸せである。世の中には、ビール飲んでうめぇ~、風呂に入って幸せ~、で事足りてしまう人もいる。あたりまえの話過ぎて忘れがちだが、どうせだったら自分は幸せだと思った方がいい。おのれが不幸なのはブルシット・ジョブのせいではない。ましてや、社会のせいでも。

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