「ブルシット・ジョブ」についてチャットGPTと議論してみた
さっきChatGPTと30分くらい、あれこれ対話を重ねてたんだけど、軽くラリーしただけで、あっという間に合計1万字超のテクストが生成されてしまって、まずそのことに驚く。しかもすでにして、そこいらの学生よりずっと賢い。
正しい引用方法がイマイチ分からず、そうかといってスクショでまるごと抜粋して晒すのも、さすがに気が引ける。さて、この「対談」をどうしたらいいものやら。必要なことは、後日調べるとして、今日のところはあくまで「感想」を書いてみる。今回は「ブルシット・ジョブ」を議題にしてみた。
「ブルシット・ジョブ」と「まともな仕事」の区別すらもつかない人、少なくないはずだ。私がかつて務めた職場なんか、まさにブルシット・ジョブのテーマパークと化していたんだけど。個人的な体験も絡めてあれこれ質問を投げてみたのだ。
ChatGPTはまともな仕事の代表格として「医療」「福祉」等々を挙げてきた。
うーん…
AIが医師免許のテストを受けると、ほぼ合格してしまうってのは、周知の事実である。
だからその、AIを搭載した医療ロボットが登場した暁には、たちどころに生身の医師を凌駕してしまうのではないかな?
そう遠くはない将来、医療自体がブルシット・ジョブの方に分類される日も来てしまうのでは、これいかに?…と返してみたのだけど。「対人間同士での感情面でのサポートはロボットには代替できないので、それはない(意訳)」と返してきた。
やはりポイントは、コミュニケーション能力や人間的なスキル(相手の気持ちが分かる等)にあるらしい。完全な回答ではないにしても。関係性の知性を磨くことにこそ、ブルシット・ジョブ脱却の糸口があるのかもしれないね。もちろん個人の努力だけではなく、組織や社会全体の制度や風土の改善も同時に必要だろうが。
あと、以降は完全な私見を述べるが、世の中には、洗車を生業にしている人がいる。その人は他人の車をピカピカにして、喜ばれているのを生きがいにして生きている。その人にとっては、他人の車を洗い続ける、それが幸せの道である。この仕事は今のところは手作業だからこそ成り立っている。だが一方で、今後、技術の進歩と自動化の波にのまれて淘汰されるかもしれない。その可能性はわりと高いと思っている。だとしても、今望まれていることができればそれでいいのだ。当たってるか否かは横に置いとくとして、つまり、このような考え方もあるのではないだろうか?
というのも「ブルシット・ジョブが社会や人生を病ます」と、YOUTUBEで、とある経済学者が言ってて。それを聞いて私もいったんは、その意見に唸らされ、共感し、真に受けていたのだ。ところがChatGPTと対話をしていくうちに、おのずと違った観点が浮かんできたわけである。端的にこの経済学者(と、デヴィッド・グレーバー)への駁論として。
幸せの見つけ方が上手い人は、きっと、どんな場所でも幸せである。ブルシット・ジョブまみれの人生でも幸せな人は幸せである。世の中には、ビール飲んでうめぇ~、風呂に入って幸せ~、で事足りてしまう人もいる。あたりまえの話過ぎて忘れがちだが、どうせだったら自分は幸せだと思った方がいい。おのれが不幸なのはブルシット・ジョブのせいではない。ましてや、社会のせいでも。
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