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”わたし”が強すぎる...

”わたし”をもっている。あなたもわたしも。

国会議員も、エリートも。バリキャリ女子も。凡人もバカも。殺人鬼も。

みんなひとしく”わたし”である。おそろしいことである。

逆に、他人は、どのような”わたし”を欲しているのだろう?

文章のなかの”わたし”の価値に格差がある。

誰かの文章を読んでいる最中に「おまえの”わたし”なんぞしらん」と怒りがこみあげてくることがある。

「それってあなたの感想ですよね」と。

どうでもいいやつの”わたし”の文章を読むと、そう思ってしまうことがある。

プロのエッセイスト(しかし、なんちゅー空虚な職業だろう)は、

”わたし”の商品価値を上げるために必死だ。
戦地に赴くジャーナリストも、アングラな世界に片足つっこんでいるルポライターも、おなじ。

文筆の世界は”わたし”のスペック勝負の場である。

わたしは、こんな苦しいトラウマを抱えている。
わたしは、こんな危機一髪の生還を果たした。
わたしは、こんなオシャレな結婚をした。
わたしは、こんなふうに人生を熔かした。
わたしは、こんな修羅場を経験した友達がいます…

みんなが欲している”わたし”というものがあるらしい。

みんながほしい”わたし”にならないといけない。

平凡な人生をおくっている”わたし”には何の価値もない。

そんな”わたし”は存在しちゃいけない

”わたし”はなにをしなくてはならないのだろう?

「じゃあお前はどうなんだ?」といわれれば、そりゃあ、なにひとつ語るべきものを持ってない”わたし”の方である。わたしは。

戦争どころか、
受験戦争すらしていない。
ヤクザやチンピラにもなれず、
遊び人にもなれず、
無頼を誇るほどの図太さも。

なにもないままに齢だけをかさねている。

ここいらで一発「怖い話」みたいなのを(「変な家」のようなやつ)書いて、
満塁ホームランをかっ飛ばしたいところであるが、お化けを見たことすらない自分に、なにを書けというのだ?

無理

”わたし”は生き残れるのだろうか?…

きっと無理だろうな。

いっそなにも書かなければいいのだ。書かなければ苦しまないで済む。そうだろう?
…しかし書かなくなった”わたし”になにができるのだろう?

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