![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132760163/rectangle_large_type_2_b49756fa9642240b5837419311c010eb.png?width=800)
”わたし”が強すぎる...
”わたし”をもっている。あなたもわたしも。
国会議員も、エリートも。バリキャリ女子も。凡人もバカも。殺人鬼も。
みんなひとしく”わたし”である。おそろしいことである。
逆に、他人は、どのような”わたし”を欲しているのだろう?
文章のなかの”わたし”の価値に格差がある。
誰かの文章を読んでいる最中に「おまえの”わたし”なんぞしらん」と怒りがこみあげてくることがある。
「それってあなたの感想ですよね」と。
どうでもいいやつの”わたし”の文章を読むと、そう思ってしまうことがある。
プロのエッセイスト(しかし、なんちゅー空虚な職業だろう)は、
”わたし”の商品価値を上げるために必死だ。
戦地に赴くジャーナリストも、アングラな世界に片足つっこんでいるルポライターも、おなじ。
文筆の世界は”わたし”のスペック勝負の場である。
わたしは、こんな苦しいトラウマを抱えている。
わたしは、こんな危機一髪の生還を果たした。
わたしは、こんなオシャレな結婚をした。
わたしは、こんなふうに人生を熔かした。
わたしは、こんな修羅場を経験した友達がいます…
みんなが欲している”わたし”というものがあるらしい。
みんながほしい”わたし”にならないといけない。
平凡な人生をおくっている”わたし”には何の価値もない。
そんな”わたし”は存在しちゃいけない
”わたし”はなにをしなくてはならないのだろう?
「じゃあお前はどうなんだ?」といわれれば、そりゃあ、なにひとつ語るべきものを持ってない”わたし”の方である。わたしは。
戦争どころか、
受験戦争すらしていない。
ヤクザやチンピラにもなれず、
遊び人にもなれず、
無頼を誇るほどの図太さも。
なにもないままに齢だけをかさねている。
ここいらで一発「怖い話」みたいなのを(「変な家」のようなやつ)書いて、
満塁ホームランをかっ飛ばしたいところであるが、お化けを見たことすらない自分に、なにを書けというのだ?
無理
”わたし”は生き残れるのだろうか?…
きっと無理だろうな。
いっそなにも書かなければいいのだ。書かなければ苦しまないで済む。そうだろう?
…しかし書かなくなった”わたし”になにができるのだろう?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?