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史上最低のニーチェ入門

基本的に、哲学者とは他人を馬鹿にするのが生業であり、それしか能の無い生き物といってもよく、
テツガクの、テツガクによる、テツガクのためのマウント地獄の諸行無常が、古代ギリシアから21世紀の今日にいたるまで、えんえんと繰り返されてきた。
だれもかれもがニーチェを読みたがる(本当は誰もまともに読んでいないのだが)のは、まあ一言でいえば、アホの子だからである。
つい先日、生意気な人間について、ちょっとだけエッセイで書いた。なまいきなだけの人なら使い道がない。だけれども、
そこに知性と爆発的な何かが加わると「青春」が成立する(←これ重要)
だれもかれも、高邁な理想を口にはすれど、心の底ではみんなセックス、セックス…
セックスしたいだけ。
フリードリヒは、セックスする人・セックスできない人という、この単純な二元対立に中指をつき立てたわけだ。
彼によれば、セックスはするものではなく、観察するもの、そっと覗き見るものであった。
ワーグナーの妻は彼を「おしゃべりな狂人」と呼んで軽蔑したらしいが、私はそうは思わない。
忘れることなかれ、彼は悲劇の神髄を究めた賢人である。
フリードリヒ・ニーチェ、
彼の真の友人はワーグナーでもヒトラーでもなく、千利休であった。利休も、また「観察」派だっただろう(それも、茶室から)

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