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ピアノを始めたきっかけから、音楽学生時代まで 〜自己紹介 その1〜

どんな人がこのnote書いてるんだろう?と言う方へ。今の私を作ってきたピアノ人生です。まずはピアノを始めたところから、ひたすらに盲目的に(?)勉強した学生時代まで。

赤ちゃんピアノ

◉ 小さいころ

奈良に生まれ、京都で育つ。2歳半から母にピアノを習う。とっかかりの理由は、妹が生まれて赤ちゃん返りした私が、母との時間が欲しかったから。物心がついた時、すでに母は厳しいステージママ(?)だった😅

・小学校〜中学時代

・母もお世話になっていた大江章子先生に習う。指の訓練のために市田悦子先生に変わったことも。大江先生はそれでも優しく、以後ずっと発表会に出させてもらっていた。(「まきまきnote相関図」(後日投稿予定)にて、お世話になった先生方や交流のあるピアニストの師弟関係を相関図にします!)

・小学校では、ピアノを理由に学校を休んだことはほとんどなかった。小4の時の担任の先生がクラスのモットーにしていたのが「挑む」という言葉。私にチャレンジ精神があるとすれば、この先生のおかげだと思っている。

妹がヴァイオリンを習い始め、発表会などで私が伴奏することに。小さい時からアンサンブルの感覚が養えたのは本当にありがたい!今でも一緒に弾きます💞

・高学年頃から月に1度、中島和彦先生に習い始める。先生の標準語ですら怖く感じ、いつも極度の緊張だった。レッスンを録音して客観的に聴けるように、その頃まだお高かったカセットテープレコーダーを買ってもらった。その時の父(電気製品の会社で働いていた)が「文明の利器をこの価格で手にできる、その裏には多くの開発者の努力があったことに感謝するんやで」と言っていたのを今でも噛み締める。

・中学時代は帰宅部。学校は息抜きと思えるほど、ピアノが重要になってきた。中3の時、ウクライナ・キエフで開催された、若い音楽家のためのホロヴィッツ記念国際コンクールに参加。ロシアやウクライナの様子、文化、音楽界の厳しさなどを垣間見て、カルチャーショックを受ける。

・私にはピアノくらいしか取り柄がないからなぁ、と言う理由で桐朋受験。今一世を風靡しているピアノ王子・清塚信也くんは受験番号一つ違い。高校では3年間同じクラスだった。


◉ 音楽学生時代

・高校・大学時代

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桐朋在学中、ほとんどの授業で最前列ど真ん中をキープ(やる気の表れ)。特に和声やソルフェージュ、楽曲分析の授業が好きだった。

・高校1年の音楽史の授業でストラヴィンスキーのペトルーシュカを知る(上画像)。ペトルーシュカの哀愁に満ちた風貌と、色鮮やかな舞台装置やコスチュームのコントラストが脳天を直撃。ノストラダムスの大予言を信じていた私は、世界滅亡前にどうしてもこれをピアノで弾かなければならない、という使命感を感じた。ピアノでオーケストレーションするための音色や多声の弾き分け、複雑なリズムに命を与えるにはどうするか、など、自らの意志で研究しまくった日々であった。

・コンクールにも挑戦。参加しない年は予選本選の全員を聴いて合否を分析するなど、なかなか地道なことをしていた。おかげさまで学生音楽コンクールでは東京大会本選に出場を果たすものの、毎回上位入賞できなかった。まぁそもそもレベルがよろしくなかったのもあるかもしれないけど、持ち前のビビリ体質による自己否定の暗示のせいもある。自己否定は普段の練習への態度すら変えてしまうから要注意。

・フランスへ留学したい気持ちが大学2年生ごろから芽生え始め、ニース夏期アカデミーに参加。中島先生のお友達でパリ国立高等音楽院のジャン=フランソワ・エッセー教授に相談し、受験を決意。大3の冬(年齢制限的に最後のチャンス)に受験したが、またしても最終試験で不合格。うなだれて帰国。

・受験失敗の傷を引きずりつつ始まった大4の春。合わす顔がないと思っていた中島先生とのレッスンは、私を生まれ変わらせようとして下さっているかのように充実していた。そんな最中の6月、先生が亡くなられた。コンタクトレンズが白く濁るほどに泣き、あらゆる意味で人生の転換期となった。(「先生との信頼関係を築くには」後日投稿予定

・卒業までの半年間お世話になる先生として、田崎悦子先生につくことになった。今までに受けたことのない類のレッスンで、どうしたらいいか分からずに、結果元の自分に戻ってしまう。それが変わり始めたのは、田崎先生ご自身のリサイタルを聴いてからだった。先生には今でも大事な本番前には聴いて頂くし、先生の教えは私の心の一部になっている(「先生との信頼関係を築くには 多分パート2」後日投稿予定

・ゼロから師弟関係を築いていくことがどんなに大変か痛感していた秋、現在の夫であるテディ・パパヴラミのヴァイオリン公開レッスンを聴講に行った。最後のレッスンの後「Au revoir(さようなら)」とフランス語で挨拶したのがきっかけで会話が始まり、繋がりができた。

・無事に桐朋学園大学を卒業、おかげさまでピアノ科卒業演奏会に出演。高校・大学の7年間はオンボロの寮住まいだった。寮も学校も友達も先生方も、愛着はあったけど東京への未練は一切なく、一度京都の実家へ帰ることに。

・卒業直後の3月、田崎先生の合宿セミナー「Joy of Music in 八ヶ岳」に参加。自然に囲まれた場所で1週間の合宿で、内側からピュアになって音楽に溶け込み、何より自分を信じることができる、味わったことのない感触。翌年からは奈良の祖父母宅サロンに田崎先生をお招きし、「Joy of Music in奈良」のアシスタントとして毎年参加。これまでにのべ100人以上のピアニストの卵の演奏やレッスンを聞き、演奏することへの学びに加えて、指導者の目線からも大切な学びの場となる。2020年のコロナ禍ではキャンセルになってしまったが、来年からは再開させたい!


・パリ留学時代

サクレクール

・大学を卒業した年の6月末、受験ビザという、入試に落ちたら帰国しなさい的なビザを手に背水の陣で渡仏。出国日はなぜか細木数子さんの占いで吉日と出ていた日を選んだ。入試の日はフランスらしく公共交通機関のスト日だったが、無事にCNR de Paris(パリ地方国立音楽院)の最高等過程に入学、ジャン=マリー・コテ先生のもとで勉強。

・パリ2年目、学校のオーケストラとラフマニノフのコンチェルト3番を共演できるという、ソリスト選抜オーディションが開催されることを知る。3番なんてとても…と最初は無視していたものの、それから常にあの冒頭のメロディが頭の中に流れるではないか。今やらずにいつやるんだ。ところがオーディション本番、またしてもビビリ体質が出てきてしまい、結局もう1人の韓国人にソリスト権が…。コンクールとか試験が本当に弱い私…。でも数年後に同曲でリベンジ共演を果たします👍🏻

CNRを満場一致の最優秀の成績で卒業。その後ひょんな繋がりからエレナ・ロザノヴァ先生につくことに。エネルギッシュな先生に乗せられて、パリで初めてのリサイタルを行う。その名も「ラフマニノフはお好き?」。前奏曲、ソナタ2番、後半はフランス人チェリストとのチェロソナタというオールラフマニノフ・プログラム。泣きたい自分を励ましたい時に、無意識に選んでしまう作曲家かも。

・パリから引き上げる時も未練はなかった。他の帰国した友達は、飛行機の中で大泣きしたと言うのに。日本で何か確かなものが待っているわけでもなかったけど、晴れやかに帰ったものである。

今日はここまで。お読み下さってありがとうございます!

再び日本での生活は平坦なものではなかったけど、今から振り返ると面白いことたくさん挑戦したなぁという気持ち。同時に「これやっておいて良かった、あれやっておけば良かった…」もたくさんあったので、別記事にしてみました。

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