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なぜスカラムッツァなのか? 〜 イタリアからアルゼンチンに渡り、アルゲリッチやゲルバーらを育てた名ピアノ教師の人生

こんにちは!ジュネーブ在住ピアニストの岡田真季です。

2021年7月1日から、「ピアノ上手くなりたいメルマガ」と称して、スカラムッツァの教えを日本語訳してお届けしています。


スカラムッツァは、アルゲリッチがアルゼンチンにいた幼少期に習っていたイタリア人の名ピアノ教師。ほかにブルーノ=ベルナルド・ゲルバーとか、バレンボイムの父であるエンリケ・バレンボイムもスカラムッツァの弟子でした。すごいメンツです🤭



彼自身もピアニストとして有名で、リサイタルではブゾーニから拍手喝采され、アルトゥール・ルービンシュタインには敬愛されてアドバイスもしたらしいとか。

その教えは当時革新的で、どんな難曲でもいともたやすく弾き、またその音はどんな大音量でも攻撃的にならず、丸かったと言われています😲


ですが、彼自身がそのテクニックを本に残さなかったため、弟子たちがレッスンで伝えたり、教えをまとめた本が出ている模様。


その中で唯一、フランス語で書かれていて私でも読めそうだったのがこの本。「Sur les traces de Scaramuzza」(スカラムッツァの足跡をたどって)著者のMarie-Christine Calvet 氏はスカラムッツァの孫弟子にあたります。

1巻を取り寄せて読んで、テーブルの上で手を動かしてみて、次にピアノを弾きに行ったら……


もう音が変わってました🤭🤭🤭✨

読み進めるたびに、「えー頭いいー!分かりやすー!この順番か!」と、唸らされることがいっぱい。


そして全4巻揃えました🤓全巻そろえたとか、セーラームーン以来なのでは(笑)


内容は、これからピアノを始める子供を導く指導者や親御さんを相手に書かれています。だから超基礎から始まります。初心者だけでなく、中・上級者や指導者にも新しい気づきをたくさん与えてくれます。

あまりにこれを広めたくて、著者のカルヴェさんに突撃メールしました。日本語でシェアさせてほしいです!と😳😳😳


そして快諾のお返事いただきました😍😍😍


やったーーー!!
というわけで、メルマガ形式で順番に訳してシェアしていく予定です。


ご興味のある方、購読登録(もちろん無料)して下さいませ🥰
こちらからどうぞ


私自身も勉強しながら、アウトプットの場として、また読んでくださる方とのコミュニケーションもしながら楽しんでいきたいと思います☺️✨


noteでは、スカラムッツァの人生(Wikipediaフラ語ページから日本語訳)と、本編の初めの数章を無料でご紹介しています。


スカラムッツァとはどんな人だったのか、Wikipediaのフランス語から抜粋して、日本語に訳してみますね。

ヴィンセンツォ・スカラムッツァ

幼少期〜

スカラムッツァは1885年6月19日に、イタリアのクロトーネにて音楽家の一家に生まれた。評判の音楽教師であった父フランチェスコから手ほどきを受ける。幼い頃から才能を見せ始め、7歳で演奏活動を始め大成功を納めた。


厳しい試験を経て奨学金を得て、ナポリのS. Pietro a Maiella音楽院にて研鑽を続けた。その音楽院では当時の名だたる名教師たちが教鞭を取っていた。(中にはスカルラッティのカタログ番号を整備したアレッサンドロ・ロンゴもいた)


年少にも関わらず審査員賞賛つきのディプロマを得ると、コンサートピアニストとしてイタリアのさまざまな大都市で活躍を始めた。

音楽教育への情熱

だが彼の天職は教えることにあった。当時のイタリアでは、いかなる音楽院でも教授の職を得ることは大変むずかしいことだった。イタリア中の優秀なピアノ学生たちが集うコンクールに、スカラムッツァも参加することになった。


その中で、スカラムッツァとブルニョリだけが満点を取ったが、ブルニョリの方が年上だという官僚的な理由により、より重要な位置づけのパルマ音楽院の教授にはブルニョリが任命された。スカラムッツァは慰みに、レベルの劣るナポリ音楽院の職を与えられた。


教授の意見を尊重しない、過度に官僚的なイタリアの教育システムに失望し、スカラムッツァはイタリアを去ることを決意した。ナポリで教鞭を取り始めて2ヶ月しか経っていなかった。そうして1907年、アルゼンチンにたどり着いたのだった。


新たな地、ブエノス・アイレス

イタリアでの、古い考えの教授たちのシビアな評価や、ひどく官僚的な音楽院の制度から遠く離れ、スカラムッツァはブエノス・アイレスこそが完璧な環境だとし、彼がイタリアで実践を重ねてきたピアノテクニックの教育を展開させた。

サンタ・チェチリア音楽院のアルゼンチン分校と手を組み、伝統的な音楽教育に新しい風をもたらした。19世紀末〜20世紀始めのヨーロッパの奏法に、彼自身の経験に基づいたやり方を融合させ、聡明かつオリジナルなメソードであった。



1912年、生徒の1人であったサラ・バニャティと結婚し、ブエノス・アイレスに「スカラムッツァ音楽アカデミー」を創設。同時にピアニストとしてのキャリアも復活させ、アルゼンチンだけでなくヨーロッパでも活動した。



そのヴィルトゥオジティにより、間もなくしてアメリカ大陸やヨーロッパで有名になった。どんな難曲も、まったくの安定感で弾きこなし、そのピアノテクニックは楽器を完全にマスターしている、と評された。

再びピアノ教育へ専念

1923年、ベルリンでの最後のコンサートで、スカラムッツァはベートーヴェンのソナタop.31-2, op.106, op.110を演奏し、客席ではブゾーニが拍手喝采を贈っていた。

このコンサートを終えてから、教育に一段と熱心に取り組むようになった。革新的なピアノテクニックの教育法をさらに進化させるために。


そのメソードとは、ピアニストの解剖学への研究に根ざしたもので、筋肉・筋・手・腕の完全なリラックス状態で演奏できると言うものだ。しかもそれは、どんな難曲に対してでも有効なのだ。


その結果、彼の音色はいつも丸くギスギスしたところがなく、フォルティッシモで演奏しても決して金属的なイヤな音がない。筋肉のこわばりに演奏がジャマされていることは一度もなかった。

幼少期のアルゲリッチもスカラムッツァの弟子のひとり。

スカラムッツァが影響を与えたピアニストたち

・アルトゥール・ルービンシュタイン
(スカラムッツァがテクニックの助言をした)

弟子として

・マルタ・アルゲリッチ
・ブルーノ・レオナルド・ゲルバー
・エンリケ・バレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)

などがいる。


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