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お念仏と読書#5「苦しみを語る」

今回で5回目となります。この「お念仏と読書」では、お念仏のお法(みのり)を、読んだ本を通してお伝えできたらと書いています。
浄土真宗の教えが、このブログで伝えたいことの根底にあります。
魅力あふれる本を読んで感銘を受け、その中で私自身が仏様のこころを感じたり、考えたりしたことを書き綴っています。どうぞお聴聞くださいませ。


今回は私たちの抱える苦しみについて、どう解決し、どのように受け止めていけば良いのか、平田オリザさんの『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』を読んで考えました。

この本は劇作家平田オリザさんによるコミュニケーションについての本です。これからは「バラバラな人間が、バラバラの価値観のままどうにかしてうまくやっていく能力」が不可欠になってきて、対話することの大切さが示されています。その対話とは、すればするほどにお互いの違いに気づかされるものです。繰り返し読みたいと思っています。


「苦しみ」について考える中で、非常に興味深い話が載っていました。
あるホスピスに末期癌の患者さんが入院してきて、その男性は50代の働き盛りでした。余命半年と宣告されたそうです。奥さんが24時間つきっきりで看護しておられました。
この患者さん、解熱剤を投与してもなかなか効かず、奥さんが看護師さんに強く詰め寄るのだそうです。「この薬効かないようですが?」と。

優秀な看護師さんだから、患者さんからの問いかけに懇切丁寧に薬の効能の説明をされます。奥さんはその場では納得するのですが、また次の日にもその次の日にも同じ質問を繰り返されました。だんだんと看護師さんたちも嫌気がさしてきます。ナースステーションでも「あの人はクレーマーなんじゃないか」と問題になったそうです。

そんなある日、ベテランの医師が回診に訪れたとき、やはりその奥さんが「どうしてこの薬を使わなきゃならないんですか?」とくってかかったそうです。ところが、その医師はひと言も説明せずに、
「奥さん辛いねぇ」と言ったのだそうです。
すると、奥さんはその場にわっと泣き崩れたのです。
そして二度とその質問はしなくなったそうです。

平田オリザさんは言われます。

要するに、その奥さんの聞きたかったことは、薬の効用などではなかったということだろう。
「自分の夫だけが、なぜ、いま癌に冒され、死んでいかねばならないのか」を誰かに訴えかけたかった、誰かに問いかけたかった。

私たちの抱える苦しみの中には、知識や経験をフル動員しても、どんなに対策や対応しても、どうやっても解決できないものがあるのではないでしょうか。
「それはタバコの吸いすぎですよ」と言われても、じゃあなぜ同じように吸っている人はならずに、自分の夫だけがと思います。
「癌になる人は多いですよ。あなたの夫だけではなく」と言われても、この苦しみの何の解決にもなりません。

しかし、その問いかけへの答えを、近代科学、近代医学は持っていない。科学は、「How」や「What」については、けっこう答えられるのだけれど、「 Why」については、ほとんど答えられない。

私たちの知識や経験ではこの「Why」の問いに答えることは難しいのです。
そしてこの「Why」の問いこそ、感情を持つ私達みなが抱えている人間存在そのものの苦しみと言っていいでしょう。
人はなんのために生きるのか?死んだらどうなるのか?なぜ苦しいのか?
「Why」の問いは答えが出ません。


「奥さん、辛いねぇ」医師のいった一言、そのたった一言ではあるけれども、奥さんにはその医師は私の苦しみを受け取ってくれたと思われたのでしょう。そして初めて心から泣くことができたのではないかと私は思いました。

頭では皆分かっているのです。
人間生まれたものはだれしも病にあい、死を迎える。今日かもしれないし、明日かもしれないのが命の本当の姿だと。
しかし、それを頭では理解しているように思っても、この身で受け止めることはなかなかできません。宣告を受ければ、泣いたり、叫んだり、パニック状態に陥ったりするのが感情を持つ私達です。だから感情あるがゆえに苦しむのが私と言っていいのでしょう。

そして阿弥陀仏という仏様はそのような「苦悩の有情のあなた」を捨てないとおっしゃる仏さまです。
つまり、私たちのことを「苦しみ悩み、情を持つもの」と見抜いたうえで、そのままをしっかりと受け止め、抱きとってくださると、親鸞聖人はおっしゃっています。

「奥さん、辛いねぇ」と言われたとしても、癌が治るかと言ったら全く治りません。しかし、この苦しみを受け取ってくれる人、知ってくれる人、共に感じてくれる人がいる。そのことを知るのと知らないのとでは大違いなのでしょう。

平田オリザさんはその後の文章で、「シンパシーからエンパシーへ」ということをおっしゃいます。「同情から共感へ」という意味です。
「患者さんの気持ちに同一化することは難しい。同情なぞは、もってのほかだ。」と。確かに同情には上から目線のイメージがありますね。

「しかし、患者さんの痛みを、何らかの形で共有することはできるはずだ。私達一人ひとりの中にも、それに近い痛みや苦しみがきっとあるはずだから」と言われます。また、誰にも分ってもらえない、同情も共感もしてもらることができないこの苦しみも、仏様は全部わかってくださっているのです。それを「同体の大悲」と仏教では説かれます。

感情をもつ私達にとって苦しみは生きている限りなくなりはしません。人生は苦なり。生きることそのものが苦しみとお釈迦様はおっしゃっています。

しかし、医師の一言に出あって女性が涙流せたように、私たちも苦しみあるがゆえにその者こそ救おうとされた、仏様の心に出あい、苦しみこそが人生の味わい喜びへと転じられていく世界があります。

最後までお聴聞くださって有難うございます。南無阿弥陀仏。

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