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お念仏と読書⑮慈悲のこころを聞く/『ココロ屋』梨屋アリエ作・菅野由貴子絵

今回取り上げるのは、うちの子ども達に人気の本で薦められて読んだ『ココロ屋』です。
可愛い絵と、優しい文章で、大変読みやすい小学生向けの本ですが、とても深く考えさせられる作品でした。
また、浄土真宗は私たちは仏様の「慈悲心」を獲得していく道ではなく、聞かせていただく道ということについて書きたいと思います。

今回、多分にネタバレをしますので、未読の方はご注意くださいませ。


「ココロを入れかえなさい。」また先生におこられてしまった。教室からにげだしたぼくの目の前にココロ屋があらわれて、「さて、どのココロにいたしましょうか。」―えっ、ココロって、取りかえられるの?ぼくは、ココロ屋の『やさしいココロ』と自分のココロを取りかえてみた。すると…。

この物語は、学校で友達と喧嘩したり、先生に叱られたりして、自分の心が思うようにいかず悩む主人公が、ココロ屋という不思議な店で様々な心を買って自分の心と入れかえるというお話です。

「鈍感」「繊細」「強い」「弱い」「温かい」「冷たい」「優しい」「いじわる」など、様々な心がある中で、まず、ひろき少年は「優しい心」と自分の心とを入れかえてもらいます。
喧嘩した友達と仲直りがしたいし、先生に叱られないようになりたいと思うからです。

やさしいココロの限界


やさしい心を手に入れたひろきは、先生や友達、家族皆から見直され、信頼され、感謝までされるようになったのです。

しかし、それで上手くいくことはありませんでした。
遅刻しそうな友達を待って、その友達の重たいランドセルまで持ってやり、その結果自分が遅刻してしまうのです。
友達から感謝の言葉を受けた時、「どういたしまして。ゆうやがちこくしなくて良かったよ。ぼくは、ちこくしたけれど…。」と言葉では言います。
しかし、むねのあたりがガタガタ震えるのです。まるで、身体が「優しいココロ」を追い出そうとするように。

人に大事な何かをあげるということは、自分の中の大事なものを失うことになります。はたして私たちは、そのことに耐えきれる身であるのでしょうか。
また、私の優しさとは、どこまでも中途半端なものでしかなく、見返りを求めることのない私の優しさって成立するのだろうかと思いました。

ひろきは、他にも「すなおなココロ」と入れかえてみるのですが問題は決して解決しないのです。

「あたたかいココロ」は「慈悲の心」


圧巻なのは、ひろきが「あたたかいココロ」を体に入れてからの場面です。
この心を持った時のひろきの行動は、私たちが仏様の心、慈悲心の獲得を目指した時に、実際どうなるのか?どのように感じるのか?をすごくよく表しているように思いました。

「仏心とは大慈悲これなり」と『仏説観無量寿経』には説かれています。
慈悲の心とは、生きとし生けるものに対して平等に慈しむ心と、あらゆるいのちの痛みを我ごととして、相手の痛みをいやさずにはおられないという悲しみの心のことです。
仏様はそのようなお慈悲そのものを体現されたお方なのです。

私はこの「あたたかいココロ」の生活のリアルな描写に圧倒されました。

「あたたかいココロ」を手に入れた生活とは


実際にこの本をお読みくださると、菅野さんの絵と相まって、臨場感がたっぷり味わえますので、強くおすすめします!

まず、ひろきは、学校で先生に叱られても「僕を叱ってくれて有難う」と心がポカポカするのです。僕のために叱ってくれているのだと思うのです。
そして、クラスの一人ぼっちを見過ごすことができない者になりました。
ひろきはクラスのヒーローになります。

学校からの帰り道、迷子の犬を見つけ、水を飲まして飼い主を探してやります。飼い主のおじいさんとおばあさんに引き渡すととても喜んでくれるのです。

夜に今度は、捨て猫の赤ちゃんを今度は見つけます。みゃあみゃあ泣いてる姿を見ると、自分も涙が出そうになります。

そして、ひろきは必死に飼ってくれる人を探して回ります。いないので、今度はミルクを分けてくれる人を探します。

猫を捨てた人を酷いと思いますが、あたたかい心は次に、捨てた人のことも「今頃、悔やんでいるかな。可愛そうなことをしてしまったって、泣いているかな。捨てた人にも、理由があるかもしれない」と思うのです。

「どんな人にでも、みんなにやさしく、親切にしてあげたい。あたたかくて、楽しくて、気持ちの良い思いを、みんなにさせてあげたい。みんなを幸せにしてあげたい。」と強く思うのです。

捨て猫に飼い主も見つけてやれず、自分が帰るのが遅くなり、ママに心配させてしまっているという自分の余りの無力さに、涙がにじんできます。

しかし、あたたかいココロは、もっともっとあたたかいココロの人になりたいと思ってしまうのです。

「どうして、世の中には、悲しいことがあるんだろう。悲しいことを見つけると、自分も悲しくなってしまう。」

今の自分の『あたたかいココロ』では、世の中の人をあたためるだけのあたたかさがたりないと、とても悲しく残念な気持ちになっていきます。

『あたたかいココロ』は今度は、ジンジン痛みだすのです。頬に涙が溢れて、止まらなくなります。

しかし、その時ひろきは気づくのです。涙があたたかかったことを。

悲しかったはずなのに、涙があたたかかったことが、嬉しくなったのです。「あたたかいのは、僕が生きているからだ!
生きているって、あたたかいってことなんだ。
ぼくはいままでいちどもそんなことを考えたことはなかった。
だれでもみんな、あたたかいのだ。命の数だけ、あたたかさがあるってことなんだ。」


「そう考えれば、世界中に、あたたかさはあふれているのだ。なんてすばらしいことだろう!」
感動したひろきは、今度は嬉し涙が止まらなくなってしまったのです。

「ぼくは、世界中のみんなにも、あたたかい気持ちになってほしい。そのためには、どうしたらいいんだろう。そうだ。ぼくの食べるものは、おなかがすいている人にあげてください」

「ぼくの服を、寒がっている人にあげてください」

「ぼくの勉強道具を、学校へ行けない人にあげてください。」

「それじゃあ、ぼくのパパとママを、パパとママがほしい人にわけてあげよう」

その言葉はひろきのことを一番思ってくれている両親をとても怒らせ悲しませてしまうのです。
お慈悲の心を獲得して、体現することの、凄まじさを描いてくださっているように私は思いました。

お慈悲を獲得する道と、お慈悲を聞いていく道


仏様とはお慈悲のこころを完成されているお方のことです。
慈悲の心を完成する歩みこそが仏道なのです。

しかし、私は慈悲の心、一つ持ちえないのです。
何故なら私たちは煩悩のかたまりだからです。
相手に対する優しさや、あたたかい心から生まれる行動を否定するのではありません。
しかし、それには限界があり、私は私の都合を中心とする心でしか生きていくことができません。
だからこそ生きていけるのです。
親鸞聖人は「これで良い」と開き直るのではなく、仏の慈悲とは逆のあり様を、とても悲しいことなのですよと教えてくださっているように思います。

私が慈悲の心を獲得していく道ではなく、仏道を歩むことのできないこの私のために開かれたのが浄土真宗です。
決して見捨てることなく、大きな慈悲の心で包んでくださる阿弥陀様のお慈悲を聞かせていただくことこそお念仏の道なのです。

最後までお読みくださってありがとうございました。南無阿弥陀仏

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