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お念仏と読書#7「分人主義」とてつもない、つながりを知る


今回は平野啓一郎さんの『私とは何か』を読み、仏教を感じ、途轍もない世界とつながりを感じたので、それをお伝えしたいと思います。

私という存在は、ポツンと孤立に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。
他者を必要としない「本当の」自分というのは、人間を隔離する檻である。


日本語の「個人」とは、英語のindividualの翻訳で、日本で一般に広まったのは近代、つまり明治時代になってからだそうです。最初は「一個人」といわれていました。

divideが「分ける」という動詞なので、否定の接頭辞inがついて、「不可分」つまり「(もうこれ以上)分けられない」という意味です。

個人とは確固たるもので、分けられないもの。私は、私、あなたはあなたと、境界ははっきりしていて、色々なことを感じ考えるのは私一つだという見方です。

対して、平野さんが提唱する自分の捉え方は「分人」です。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」であるということです。


私は昔見たピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」を思い出しました。

https://www.youtube.com/watch?v=F_8hjyP7l5k

ほんと神曲です!私にとっては仏教を感じさせてくれるので「仏曲」と言いたいです!!最後にはぐっと感情が溢れそうになってきて、泣きそうになります。

また、「分人」という観点からこの曲を聞き返すと、本当に深いのです。
「ぼくのおとうさん」に出てくる「お父さん」、これは子どもとの関係性においてある存在です。

ですから、会社へ行くと、関係性において会社員になり、仕事をする時は課長さんになります。英会話教室に行くと生徒さんになり、電車に乗ると名もない一人の通勤客になります。

しかし、家に帰ると「ただいまー」と言って、子どもにとってのまた一人のお父さんになるのです。

淡々と関係性がただ歌われます。そのすべてがこの一人の人物を構成しています。想像ですが、会社で仕事ができないダメな人と言われてようと、子どもにとってはめっちゃいいお父さんかもしれません。

「だから自分や相手の一面だけを見て絶望することはないんだ」分人主義という考え方は、広い視野を私に教えてくれているように思いました。

平野さんは、私という存在について「個人」から、この「分人」という見方に変えることにより、世界の見方は一変するといわれます。むしろ、個人という単位の大雑把さは、すでに現代の私たちの生活には対応しきれなくなっていると言われます。

そもそも人間とは「間に人」と書きますが、関係性の中に生きるのが人です。
一人の人間は複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はないのだと平野さんは言われます。
個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたいと。分数はの分母は私が影響を受けた人の人数です。


このような捉え方は、福岡伸一さんの「自分の身体は部品のような個体ではなく、絶え間なく流れている流体で、常にバランスを取りながら動いている」という「動的平衡」の考え方と共通しているように思いました。

これは、仏教の縁起の見方とも共通していると言えます。全ての物事には必ずその原因があり、さまざまな条件がはたらいて生じているという事実です。原因と条件とは複雑にからみ合って、どこに原因があり、またどれだけのものが条件となっているかは見定められませんが、原因や条件なく生じるものは一つもありません。
私がいて繋がりがあるのではなく、繋がりの中にしか私は存在しないということです。

その人らしさ、「個性」というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

思えば、今の自分がここにあるのは、今まで出会ったすべての人たちの影響によってとも言えます。しかし、出あってない人たちの影響をも受けていると仏教は教えてくれるのです。

なぜなら、私が出あった人にも、その人が出あった全ての人たちの影響の集約があり、その出あった人にもそれぞれ同じようにありますから、結果無限に広がり続けるからです。

そのように考えると、私一人がこの世にこうして今、ここに存在しているのは、無始以来すべての人や、人だけでなくいのちの影響を受けていると言えます。

仏教を聞く中に、分人としての分母は実は∞(無限大)と知らされ、私はすべてのいのちの繋がりによって、生かされているのだと思い知らされるのです。ただただ驚くべき事態です。

最後までお読みくださって、有難うございます!南無阿弥陀仏。

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