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お念仏と短歌①人生とは「はず」の連続

今回は永田和宏さんの短歌を読んで感じた「人生とは『はず』の連続」ということ、そして仏さまは「必ず」とおっしゃていることについて書かせていただきます。

この短歌は、2016年のお正月に「宮中歌会始」があり、次の日の新聞で読んだのが出あいです。私自身にとって生涯大切な短歌だと思っています。

「はず」の人生

二人ゐて
楽しい筈の人生の
筈がわたしを
置いて去りにき

永田和宏

この短歌が作られた背景には、40年連れ添い、共に短歌を作り続けてきた歌人、河野恵子さんとの死別の縁があります。

あなたと二人いれば、あるいは二人いればこそ、これからが楽しい人生の後半生となる筈だったのに、あなたは私を置いて逝ってしまった。その「筈」に私は置いてきぼりを食ってしまった、そんな意味の歌です。

私がこの短歌を読んで感じたことは、本当に人生とは「筈(はず)」の連続だということにつきます。

皆さん、ここで一つ私からお願いがあります。
試しに明日起こることを予想し、心の中に思い浮かべてみてください。

思い浮かばれましたでしょうか?
その中で、一つでも「必ず」というものはあるでしょうか。どうでしょうか。
ありませんよね。
あるのは、そうなる「はず」だけです。

一日先どころか、一秒先、一瞬先のことでさえ、私たちは「はず」でしか考えることができないのです。

私は明日は今日と同じような明日があると思って生きていますが、明日が必ずやってくるとは限りません。
私自身半年前に、このようなコロナの現状がくるとは思いもしていませんでした。

明日はあるはず、明日もあの人はいてくれるはず。
そう思いながら私は今、生きています。しかし、それはどこまでも「はず」でしかないのです。
だから私たちは「こんなはずじゃなかった」とあてが外れて言うのでしょう。「はず」と思わなければそうはなりません。しかし、私たちは「はず」でしか物を見たり考えたりすることが決してできないからです。

「はず」の言葉の由来

「筈」がひとつのキーワードになっています。「わかってくれる筈」とか、「できる筈」とか、ごく普通に使われる「筈」ですが、本来、弓の両端にあって、弦を掛ける部分を言うんですね。この筈と弦がうまく合わなければ矢は飛ばず、それがうまく合うということから「当然のこと、道理、わけ」という意味になったんだそうです。

「筈」とは弓の両端にある、弦をひっかける部分と初めて知りました。
「当然のこと、道理、わけ」とありますが、これは私達人間の思う道理の事であって、昨日までこうであったのだから、明日もこうなるという道理のことです。

弓矢の筈も何千回、何万回と射ていたら、筈が外れてしまうことがあります。
同じように私達も自分がそれこそ予想もしなかったことが人生に起こることがあります。

あなたと二人いれば、あるいは二人いればこそ、これからが楽しい人生の後半生となる筈だったのに、あなたは私を置いて逝ってしまった。その「筈」に私は置いてきぼりを食ってしまった、そんな意味の歌です。私を置いて、逝ってしまった人、それは私の妻、歌人の河野裕子です。

「はず」に捕まらねば、生きていけない人生


そして、この一首は永田さんが、河野裕子さんがお亡くなりになる少し前の一首を本歌とした、一種の本歌取りのつもりで作った歌だと知りました。

これからが 楽しい筈の人生の
筈につかまり
とにかく今日の一日    

河野 裕子『蟬声』

歌人であるお二人は、子どもさんたちも独り立ちされて、これからが第二の人生として、ご夫婦二人で歌にさらに向き合われて行こうとされたのだと思います。
しかし、その中で乳癌が再発していくのです。そして、病が重くなり切羽詰まった時の歌なのです。

私達の苦しみを仏法は「不如意」、つまり「自分の思うようにならないこと」と教えてくれます。
そこには先に私達の「思うようになるはず」というものがあるから生まれていくのです。

「筈につかまり とにかく今日の一日」

胸をうちました。「それでも、なんとか明日も、大切な人と一緒に生きていたい」という「はず」につかまって生きていくのです。
「今日一日私は生きる」「今日一日あの人に会う」という、筈につかまって生きていくより他がない想いが強く迫ってきます。

「はず」にすがることなしに、生きていくことができない、これは私の姿なのだ、これは私の命の事実なのだと河野さんに教えていただきました。

「必ず」は仏様のはたらき


仏様のおみのりを聴聞すると、「必ず」は仏様の側にこそあると知らされるのです。
私達は「はず」でしか、ものを見ることができませんが、その私たちのために立ち上がったアミダ仏は「必ずすくう」「必ず私の国、お浄土に生まれさせて仏にする」と私たちの命を見てくださっているのです。

「倶会一処」という、浄土真宗で大切にしているお言葉があります。
浄土真宗のお墓に刻まれていることがあります。
これは『仏説阿弥陀経』にある御文です。
「会」という字を辞書で調べると「必ず会う。約束して会う」という意味が書かれています。
私の約束はあてにはなりませんが、アミダ様だから支えとなるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏もうす中に、必ずお浄土でまた会う世界を今いただくのです。
なぜなら、アミダ様のお約束だからです。

倶会一処「必ずまた会える!」


先日あるお家に入仏式にお参りしました。入仏式とは、お仏壇のアミダ様をお迎えするお勤めです。
お仏壇を御安置されている代に小さいカラーのカードが貼ってありました。
そこには「必ずまた会える!」と書かれてありました。

大好きな方を見送られて、お連れ合いの御主人と娘さんがお通夜の時、御葬儀の時、泣いておられました。
その後、七日ごとにお寺にお参りになられ、一緒にお経を拝読して、その後、法話で「倶会一処」のお話をさせていただきました。色々と質問もしてくださいました。

入仏式の時、予期せず、このカードを読んで、お浄土の「倶会一処」のはたらきが私自身に届いてきました。涙が出るくらいうれしかったです。
朝な夕なに、お仏壇の前に座られて手を合わし、お母さんに語り掛けていらっしゃるはずと想像したからです。

私達は、はずの連続のこの人生「こんなはずじゃなかった」と悲しんでいく人生ではありますが、「必ずすくう」というアミダ様に支えられて生きる人生でもあります。
永田さん河野さんの短歌を通して、またお念仏を通して知らされたご縁でした。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。南無阿弥陀仏。



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