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お念仏と読書#11無限にあう

今回は初めて仏教書からの紹介です。森田真円先生の『ひらがな真宗』を通して、無限につて考えていきたいと思います。

京都女子大学教授で、本願寺派勧学の森田先生は、浄土真宗のおみのりをやさしく、わかりやすく、豊かにお示しくださいます。この本は著作がたくさんある先生の最初の本です。

この本には、「迷い」や「他力」「老苦」といった仏教の言葉について、初めて仏教に触れる方にも楽しく味わえるように、簡潔に浄土真宗のおみのりが説かれています。比喩が絶妙で、何度も読み返し、その度に学びと気づきをいただきます。

この本の中に「『限りないとは?』阿弥陀仏」という章があります。

皆さんは最近、無限というものに心を向けたことがありますか?

森田先生は子どもの頃に、空を見るのが好きだったそうです。
ただ、ぼんやりと、時を忘れて、空を見てこう思われます。

「今、雲の向こうに見えている青空のずっと先に空がある。限りない宇宙というものがある。さらに宇宙の向こうにも、ずっと先があるそうだ。どれだけ先があるのだろうか」


私の無限ファーストコンタクトは、母親の三面鏡でした。
私は幼稚園児の頃、小児喘息で幼稚園を休み一人きりの部屋で、三面鏡を折り曲げてのぞき込むと、どこまでも自分の姿が現れて、なんとも不思議で恐ろしく、びっくりした記憶があります。

思えば最近私は、このような無限との出あい体験をしていないなと振り返りました。


「無限」をテーマにy氏に4コマ漫画を頼んだところ、今回もy氏節が炸裂しております!

無限

ペラロンはある時∞(無限)について考えてみるのです。
そして無限を探してみようと思い、地球から宇宙までの距離や、色、高さも無限じゃないかと思います。
合わせ鏡に映った自分の数、音や、気持ちも無限じゃないかと思うのです。
しかし、「無限、無限、他にあったかな?」と考えながら、そのときハッと気づかされます。

「その想像が、ぜんぜん∞(ムゲン)大じゃない!!」と。
ペラロンは無限の中にありながら、無限を理解することは不可能だとその時知ったのです。

限りのないものや、はかり知れないものというのは、確かにあるのでしょうが、よく見えず、正しく理解はできていません。
ただ、なんとなく「無限」とか「無量」だとイメージしているにすぎず、本当に理解できている訳ではないのです。(中略)

けれども、宇宙や鏡の中のボールのように、人間が把握できなくても無限はあるのです。人間の尺度がどうであろうとも無限は人間にかかわっているのです。

浄土真宗とはアミダ様のおすくいのことです。
アミダ様の「アミダ」とは、ア・ミータの略です。「ミータ」とは「メートル」というように量るという意味で、「ア」は打消しの意味です。つまり、アミダ様は「限りがない」「私がはかり知ることができない」という仏さまです。

森田先生はおっしゃいます。

阿弥陀様の無限は、単なる自然の無限とは異なり、人間という迷いの存在に「限りない願い」をかけ、救いを与えようとするものです。その「すごさ」に出あった時、それは「尊さ」となり、自分の尺度の至らなさが知らされるのです。

アミダ様は、私達の思いやはからいを超えていますから、自分の知識や経験に収まるものだけが本当で、それ以外は本当ではないという、私達のものの見方をうち砕かれます。

しかし、同時に自分の思いやはからいでしか見ることができない私達が、そのまま限りなきアミダ様に包まれていることを知らされるのです。

何かと不安に、また窮屈に感じることもある日々ですが、「南無阿弥陀仏」とアミダ様のお名前をお称えする中に、無限によって包まれ、支えられているこの日々であることも知らされるのです。

宜しければ、ご一緒に無限さがししてみませんか?
皆様もなにか面白い無限を見つけたら、どうぞ教えてくださいませ。

それは無限の中で安心の、無限さがしです。
また、こんなすごい味わいの歌もあります。

恥ずかしや 親に抱かれて親探し くたびれはてて 親のふところ
                   那須行英


この歌でいう「親」は「無限」つまりアミダ様を表しているのでしょう。

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(早速小さな畑を耕して、無限探しです!どんな無限が見つかるかな?)

今回は森田真円先生の『ひらがな真宗』を読んで、アミダさまによって私の見方には限りがあることが知らされ、しかし同時に、その私がそのまま無限に包まれていることを知らされることを味わわせていただきました。

最後までお読みくださってありがとうございました。南無阿弥陀仏。




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