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「米百俵」を知る

慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争で長岡藩は、新政府軍との戦いに敗れ、城下町長岡は焼け野原となった。
食べるものにも事欠く長岡藩の窮状を知った三根山藩(現在:新潟市西蒲区)から米百俵が見舞いとして贈られてきたが、時の大参事、小林虎三郎は、百俵の米を売却し、文武両道に必要な書籍、器具の購入にあて、国漢学校(現在:大手通2丁目)の設立資金に注ぎ込んだ。こうして開校した、国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。これは、長岡の近代教育の基礎となり、後年、東京帝国大学総長(現東京大学)の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥など……、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。

引用:長岡市HP「米百俵の精神」より

「明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。」

2001 年 5 月、小泉首相所信表明演説


国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。
食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。

米百俵の精神

米百俵を知ることで気づいたことは、
理論を唱えるより実践して示す方が、ずっと価値があるということ。
世のため、人のためにできうる最善のことは、
自分自身を最大限に活かすこと。
自分自身が豊かになること。
豊かになるとどんなに幸せかを見せることによって
私も豊かになりたいという願望を持たせることができる。

思考は、思い描いた通りのものを創り出す。

725 2024/02/10

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