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企画参加します。めげないやつ子さん編。


「めげないやつ子」さんの企画に参加しようと考えました。


部門は「めげない部門」にします。

「ハードルが高い」という言葉かよく使われるようになって久しいですが、ハードルというか挑戦することがなければ、人は成長しないものだと考えています。

先天性の障害を持つボクですが、障害を生まれながらにして持ったことにより、逆にいろんなことに挑戦しようと考えるに至ったから、それはそれで良かったのかもしれません。

でも、そんな風に考えるようになったのは、ある程度年齢を重ねてからであり、若い頃は「元気があれば、何でもできる」というように、無意識に「アントニオ猪木」さん張りに考えていたのかもしれないのです。

障害を持って生まれたけど、何をやらせても器用なほうで、小学5年生の時から参加した町内のソフトボールチームでは、6年になるとキャプテンで守備はファースト・打順は3番でした。
その前の小学1年から始めた書道教室へ通うことでは、6年の時には準3段の資格を取得できましたし、4年生から通い始めた珠算教室では2級の資格を取りました。

でも中学生になり、近所のお兄さんが入部したバスケット部に入部したら、2年の秋になった頃、バスケ部顧問から「マネージャーになってくれ!」との言葉を投げ掛けられました。

その言葉に反発して、バスケット部を退部して、バレーボール部へと転部したら、バレーボール部の顧問からは「1年から入部していたら、レギュラーになれた」とのお褒め言葉をいただけたのでした。

ダメなら他で頑張ればよいと考えることが「めげない」考え方をしているのだといえるのでしょうが、ボクの場合は、そこで終わりにはならなかったのです。

高校生になり、昼休みの退屈な時間を有効活用しようと考えて、バスケット部を退部するきっかけになったシュートの不安定さを正すために、昼食後独りでフリースローの練習に明け暮れました。

すると、それを見かけた高校生になってから仲良くなった友達たちが、練習に参加するようになり、だんだんと人数も増えた時には、試合形式でバスケットボールを楽しむようになっていったのでした。


1年の時と2年の時には、球技大会にはバスケットボールはなかったのですが、3年の時になり、ようやく初めてバスケットボールが組み込まれたのでした。

昼休みになると、練習してきたボクたちですから、ある程度の実力はあり、下馬評でも優勝を狙える位置につけていたハズでした。

一回戦は楽勝でしたが、二回戦で戦うクラスには、バスケット部の主将がいるし、そのクラスは全員が男性であるという、こちらにとっては不利な要素が詰まっていたのでした。

そこで、ボクがとった策は開始早々にハーフラインあたりからの長距離シュートを放つことでした。

そのシュートが見事に決まり、ボクには2人のマークがついたので、作戦は成功したのですが、実力差が徐々に滲み出てしまい、残念ながら敗戦に至りました。

ちなみに、対戦相手のクラスの元バスケ部の主将からは「おまえたちとの試合が、事実上の決勝戦だったよ」という言葉をもらうことができましたよ。

片手しかない人でも練習次第では、かなりの確率の高いシュートがうてるようになるという話を聞きましたが、下手に使いづらい右手を補助に使うから、シュート率は良くはなりませんでしたが「めげない」気持ちを持ち続けた結果が、先制シュートに結び付いたのだと考えます。

その後も年をとり、統合失調症が悪化したのだと思われる父により人生を狂わされましたが、めげることはせずに頑張り続けてきました。

その結果が、こうして性格が良いnoterさんたちと知り合えることに繋がったのだと思えるのです。


スラムダンクの安西先生もおっしゃっておられるように「諦めたらそこで試合終了ですよ。」ということですからね。



…めげないでね。

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