ある方向から見たときのボク。
ボクの自己紹介的なものです。
あまりにもやることがない人は時間つぶしにでもしてください。
幼稚園の頃、みんなが苦しんでいた「逆上がり」ができた。
幼稚園の先生や母はとてもよろこんでいた。
なぜか理解できなかった。
腕の力でやるのではなく、蹴り上げた勢いでやれると考えていたようだ。
土曜日に絵画教室の授業を受けていた。
迎えに来た母は、夏には友達にもアイスをあげていた。
なぜ?と、思った。
小学1年生のときに、クラスの代表として作文を書かされた。
男子一人・女子一人だった。
うまくなかったようだ。
2年生のときには、違うクラスの男子に石を投げつけられた。
怖かった。なぜかわからなかった。
3年生のときに、クラスメイトと口論になり、若い先生が相撲で勝負しなさいと言って、勝負したら勝った。相手はボクを嫌うようになった。
4年生のときに、珠算の教室に通った。ブームが来ていたのだ。
6年まで通い、4級まで資格を取れた。
5年生くらいでは、メンコ(ぺったんと呼んでいた)が流行していて
向かうところ敵なしであった。手で触っているとも言われた。
(たくさんのメンコをたてに積んで、メンコを当てて下に落としたものを手に入れられる仕組みだった。)
6年生で町内のソフトボールチームのキャプテンになった。
3番ファーストだった。守備は下手だった。
4年生頃から、近所のお好み焼き屋さんに通い続けた。
一枚100円程度・肉はなかったが、みんなで通っていた。
遠州焼きではなかった。とても美味しかった。
中学でそれまで通い続けた書道の塾をやめて、学習塾に通うようになった。
書道では準3段まで資格を取れた。違う学区から来ていた女のこのことが気になっていた。30代で偶然行った歯医者で看護師さんに「私のことを覚えてる?」と言われたけど、それがその子であり、そのしばらくあとに彼女は結婚した。
右手指をいじられ始めたのが、2年の秋の頃であり、無視したらいじめを受ける羽目になった。3年で首謀者が「冷戦にしよう」と言ってきたが、意味が理解できず、断ったらいじめは続いた。
2年生くらいのときに、静岡放送のラジオ番組の集会に一人で行きました。
静岡での公開収録であり、「国本良博」アナウンサーや、故「荻島正己」アナウンサーも登場しました。司会の女性は後に「荻島正己」アナウンサーと結婚なされました。「荻島正己」アナは、俳優の「荻島真一」さんと従兄弟でした。TBSテレビの番組に出演していたこともある人なのです。
アテレコもあり、二組目に選ばれましたが、放送で流れたのは一組目のほうでした。・・・もう、なんて残念なことだ。
高校入学時に「おまえが受験した中で最低の成績だったぞ」と見知らぬやつ二人組に言われた。
クラスの研修委員に選出されて、修学旅行のプランを考えた。
相棒はバレー部のやつで、忙しくボク一人で考えたが、とてもまともなものには仕上がらず、結局中学のときと同じように「京都・奈良」方面に決まった。ボクたちは九州を担当していた。2年で研修委員長になり、修学旅行では、みんなの前で何かを言うことになったが、ほとんどの人が聞いてくれなかった。人気のない教師の気持ちが理解できた。
3年のときに初めて球技大会の種目にバスケットボールが採用された。
中学時代にバスケ部に所属していて、2年の秋に戦力外通知を受け,マネージャーになれと言われたが、それを蹴ってバレー部に転部したら、顧問から「1年のときから入っていたら、レギュラーになれた」と言われたが、そこは弱小ばれーぶゆえにどうでもよくて、高校入学後すぐに昼休みにフリースローの練習をしていたら、仲間が集まり。チーム戦で練習するようになった。球技大会では2回戦で元バスケ部主将を含む二人のいる男子ばかりのクラスと対戦した。まともに戦っては勝てぬと判断して、ハーフラインそばから一か八かのシュートを放ったら、偶然決まって,マークを二人つけることができたが善戦むなしく敗退した。
試合後に優勝したそのクラスの主将から「おまえたちとの試合が事実上の決勝戦だったよ」との褒め言葉をもらえた。「うれしかった、とても・・・」
部活は物理部で、文化祭部とも呼ばれていて、黒点観測や、星の写真などを作るくらいしか行動せず、普段は新聞紙を丸めたものをボールにして、ほうきで打つ野球ばかりしていました。
土曜日になるとボウリングや対簿記部とのソフトボールをやったり、徹夜で麻雀をやったりしていました。勉強は嫌いだった。
漫画アニメ同好会にも所属していたが、ほとんど出席せず、それでも卒業文集にはイラストを描いたりもしました。適度に見られるデキであったと。
高校1年のときに、野球部が拳大会で優勝し、夏の甲子園大会に出場した。
1回戦は、部活の合宿(愛知県の離島へ星の観察に行った)で、応援に行けず2回戦は応援に行ったが、3回戦くらいのときに熱を出し、勝ったので応援した人たちは甲子園の付近に一泊できたが、次の試合で、20対8くらいで敗れた。ボクの応援がなかったからだろう・・・というのは大嘘で、エースが連投から肩を壊したからである。
後に知ったのだが、対戦相手の「瀬田高」のエースは、後に「日本ハム」のエースとなった「西崎幸広投手」だったということだった。彼らも優勝にまでは手が届かなかったようだ。
高校1年で近くの駄菓子屋へ連れて行ってもらいアーケードゲームの楽しさを知り、ハマっていった。
・・・ここまでで、終わりです。楽しんでいただけましたか?
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ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。