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目標無き指摘

はじめに。以下に書かれているのはあくまで私の所感から生じる考えであることに留意してもらいたい。
現在、私のTwitter(通称X)のおすすめ欄は今までにないほど鬱屈としている。その中でも、ある種の指摘という行為に関する議論はどこまで興味がないと潰しても湧いて出て来る。良いだろう。雑に私がまとめてやる。雑だから、しかも出典すら確認せずに書いているから、話半分で見てもらいたい。
そこで言われている指摘というのは、つまりは誰かの誤りを気付かせ明るみに出す行為である。それは大体が何かしら、たとえばボードゲームなどで間違ったルール運用をしていたその本人に対して行われる、という文脈で使われているようだ。
これが、どの遊びの界隈で行われ、そして学級会になっているのかはここでは触れない。その程度ではどうせ自然消滅する。
さて、この手の指摘に似た性質を持つものとして、アドバイスとフィードバックが挙げられる。フィードバックに関してだが、ここでは試作段階にある何かを試してもらった結果得られた試験を行った者からの所感という風にする。

ここからは、そんなフィードバックの話だ。

私も実際に、ある企画の制作に携わりそしてテストプレイから改善案を吸い上げる作業をしたことがあるのだが、何か心にこたえるのだ。嫌味ったらしく聞こえたりするのだ。と思って実際に頂いてものを見返していたのだが…どうも当時は疲れていたようだ。昔ほど狂いそうになることもない。とはいえ嫌な感情が付かないわけではない。しかしそれがどちらかの非から生じるものかと言われると正直微妙である。
企画者と参加者の間に、目標とするものとかそういうものに関する微妙なズレがあるのでは。今、ふと思った。
演出を楽しむために敢えてルールを簡素にしていたら「ルールがつまらない」と言われる、そういう類の現象から生じる嫌さがそこにはあるのかもしれない。であれば我々がやるべきは、目標の共有であろう。確かに「遊んでみた所感をただ述べろ」では不親切である。
作るゲームにおいて、「何を目標としているか」というのは大切かもしれない。例えば「あなただけの主人公を魅力的に演出する」とか、「斬新なゲーム性であなたを驚かせたい」とか。その上でどれだけ目標が達成できているかをテストプレイなどで測るのだ。

当初の予定では「正しさを伝えるためだからって言い方ってモンがあるだろ!それが相手に与える感情を考えろ!」というのに収束させるつもりだったのだが、今回の結論は「目標達成のために指摘はある。であれば我々は目標の共有をすべきであったのかもしれない」というのになってしまった。

とはいえ前者も大切ではある。基本的なことではあるのだが、今一度、意識して実践してみてもらいたい。

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