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縁あって、訳あって
昔の事だし
誰だったか…なんだったか…
いつだったかは、もう忘れたけども。
誰も、自分が実は期待してるほど、自分のことなんて見てないよ。
過去の奴隷にならずに、捨てて生きていく事
過去の褒め言葉も、過去の恨み節も
全部、リセットしただけでは意味がないから、嫌なものは焚き火の中に放り投げて燃やすことにした。
期待をしない、諦めにも似たような気持ちは、いつしか自分の強さになった。
10代から親父の仕事を手伝っていたせいか、周りの人は後を継いでこれから成長していくのだろうと期待していた。
いや、されていた。
親父は昔気質のワンマン社長で、俗に言うところの『瞬間湯沸かし器型』だった。昔は後付給湯器と言うものがあった。
それを点ける時、独特なボッと言う着火音が聞こえて、暖かいお湯が供給される。
今風に言うなら『着火剤』だろうか。
直ぐに熱くなる、って意味合いもあるのだろう。こんな揶揄表現を思い付いた人はユニークでセンスがあったに違いない。
さて、そんなカッとなり易い親父と対照的に、自分はメイビー導火線が長く、滅多なことでは驚かなかったし、双方の言い分を考えてから回答するところがあった。それと変なところで器用な面が目立つものだから、面白がられたのかも知れない。或いは、直ぐに熱くなり怒り出す親父を抑えて、早くなんとかして欲しいと言う、親父に関わる人間の懇願に近い思いすら感じていたのかも知れない。
親父は機嫌がいいと、よく仕事仲間の飲み会に自分を連れて行った。何か楽しい事を話してみろと、皆、囃し立てるものだから、仕方なく勉強やら友達やらの話をしたり、所感を述べたり。毎回それでは飽きるだろうと、手相や人相、手品などやって見せた。生年月日から割出す占いなど、意外と世代を超えてウケるものなのだなと解釈していた。
将来は何になるのか決めてるのか?
よく聞かれた。大工にならないか?鳶にならないか?いやいや、料理人になれよ。コイツは、デザイナーになるんだ。学校の先生になるんだよな?
何を根拠に?と、思いつつ、その辺は言葉を濁し回答はしなかった。
子供の頃は幾つも習い事を掛け持ちして、とりあえず通うだけ。周りに合わせていれば何とかなるだろう。親が望むなら、そうしよう、そんな気持ちでいた。
親の言う通りにしてやりたいと、それなりに形だけでもやってみせた。ガッカリさせたくはないのだ。悲しませたくはないのだ。少なくとも自分はそんな気持ちでいた。しかし、当時の習い事は全くと言っていいほど楽しくは感じてなかった。
学校でもそうだった。よりにもよって、小学校と中学を最終学年で転校している自分には友達らしき友達はいなかったし、これまた担任となった女の先生からは何かと目の敵にされ『今まで自分が見てきた児童の中で最悪な児童だ!こいつは、何やってもモノにならない!』ヒステリックに職員室で捲し立てたらしい。それは別の先生方からも散々聞かされた。ヒールの付いた靴でみぞおちを蹴られたこともある。今なら大問題なのだろう。大した原因なんて思いつきもしなかった。ただ、この担任は『何故、蹴られたのか、自分で考えろ‼︎このバカが!』と吐き捨てて、悶絶する自分を置いて教室のドアを引き戸をバン!と閉め出て行った。絶対先生権力とでも言えば良いのか。今でさえ、この学校教育方針とやらは問題視している。それに追従するかのように、他の児童たちも自分に関わるとろくな事にならないと、殴られもしたし、教科書も捨てられたし、ランドセルも少し目を離しただけでゴミ箱に放り込まれる。給食には目一杯の消しゴムのカス。輪を描くように孤立していた。自分と話す事で、その子まで巻き込んでハブにされたら溜まったもんじゃない、と。距離を置いていた。親になんか相談できるわけもない。親の理想像と自分が余りにも乖離してるからだ。
なかなか、この気持ちを分かってくれ、と叫んだところで、自分の思うように理解してくれる人なんていないと、分かってた。
いつだったか、ボクサー亀田大毅がテレビでこう叫んだ。
『俺はいつだって1人だったよ!』
チャンピオンになった途端、同級生が手のひら返して急に友達面し始めたって話の下りだと思う。横目でテレビを見ながら「世知辛いねぇー」と、ぼやいた記憶が薄らある。自分がそれでも、何とかなったのは持ち前の性格が明るいのと、不屈だった事もあっただろう。どれだけつらかろうが、どれだけキツかろうが、どれだけ血反吐が出ようが、自分だから乗り越えて行けるんだ、と言う、根拠の無い自負だけはあった。
たとえ100人に否定されても1人だけ認めてくれたらいい、それで全部報われるだろう。
1000人に否定されても1人だけ認めてくれるなら、それでいいだろう。
10000人に否定されても1人だけ認めてくれたら、それで忘れよう。
そう決めた。そうしたら、ほんの少し気持ちは楽になった。ここから快進撃になるとは思わなかった。中学に入ると、他校からの生徒もいて友達は出来た。常に周りに友達がいて、行きも帰りも追いかけて来る同級生がいた。関西と北海道から転入して来た仲間と、BOOWYやジュンスカやブルーハーツの真似をしてふざけていたり、時に喧嘩したが、翌日にはそんなこと忘れて他愛ない事でゲラゲラ笑ってた。
同級生が転校することになり、皆が泣きながら囲む中
『あいつ転校するんだってよ。お前、転校生だったじゃん?何か言ってやれよ』
その子に目線を落とすと、あ、頭のつむじ左回り。低気圧の型だな。そんな事を考えながら
「まあ、なんとかなんじゃねーの?達者でな」
女の子たちは
『酷いー!』『それだけ!?』『声かけるんじゃなかった』
そんな声を背にサッカーボールを拾って、夕日が挿す校庭に蹴り返した。何も死ぬ訳じゃあるまいし、あの子は嫌われるタイプじゃないから、きっと、大丈夫だよ。自分のように思い詰める必要はない。寄せ書きには【だいじょぶだぁ〜】と、書いて回した。その後、やっぱりフザケタ真似を!と言われたが。大体からして、自分が何とかなったから大丈夫なんだ、なんて書けるか?自分と同じ目に遭ったら、多分、1ヶ月もしたら訃報が届くぞ?それに、いい人いるから、なんて無責任な事書けない。自分の経験を基に言うなら、ココはかっては最悪だった。だから考えて書いたのが志村けんの【だいじょぶだぁ〜】になった訳だよ。当たり障りない言葉だよ。
その何ヶ月か後に、自分も転校する事になる。当時の同級生たちは笑いながらも、行かないでくれよ!これから誰と遊べばいいんだよ!と本音か建前か分からないような言葉を並べたて、ここついでにと言わんばかりに『大好きだったのに!』『俺、お前になりたいのに!』と抱きついてくるエキセントリックな男子までいた。
『お前がいなくなると学校がつまらなくなるよ』『これから何して笑ったらいいんだよー』『ここまで通ってこいよ』『高校は同じところに行こうな』『お前んち、明日行くから!』『休みの日は皆で遊ぼうぜ!』『お前、また転校するのか?』
『お前なら大丈夫だろ』その言葉を聞いた時だけ
「貴様がー軽々しく言える言葉じゃない」と言い返した。今までずっと抑えていた気持ちだった。一瞬にして皆、黙った。中には自分と同じように仲間外れにされたことがある人もいた。変な空気感だった。それは追い込んでいた側が言える言葉なのか?どうなんだ?と、それを問い詰める事になったからだ。皆から注目をされて、彼はビックリした顔して小さく『そうだよな、ごめん』と言った。その後は彼の肩を掴んで「何言ってんだよ、大丈夫に決まってるだろ!お前だったら…」その後の言葉は無用だろうと飲み込んだ。
お前だったら…絶対無理、絶対ダメになる。あんなキツイ状況打開できるわけもない。何にも考えずに乗り越えられるほど簡単しいモノじゃないんだよ。けど忘れるなよ?謝ってくれた言葉の重さを。謝罪なんて聞きたいわけではなかった。罪悪感を感じていてくれたことに申し訳なく思った。そこまで覚えていてくれたのか、と。有り難かった。最後の言葉を飲み込んだのは正しかった。
転校先はあっという間に過ぎた。目立つことも無かったし、何かに追われることも無かったし、ほとんど記憶にないまま終わった。小学校、中学校の卒業アルバムは大した思い出も無いから、焚き火の燃料に使った。
忌まわしい記憶と共に燃えてしまえ。恨み節も、悲しかった事も、つらかった事も、思い出さないように。
『お前、なにしてん?』大工のよっちゃんが声掛けてきた。
「忌まわしい記憶と共に、お焚き上げしてんだよ、成仏しますようにー」燃えろよ燃えろよ〜炎よ燃えろーひーのこを巻き上げーてんまでとどけー
『ん?あれか?行け!アクシズ!忌まわしい記憶と共に!』
目が点になり、よっちゃんのシャアの真似がやたらと似てて、笑いが止まらなくなる。こうやって、ガンダムネタにぶち込んでくるから、本気で落ち込むと言うことが出来なかったんだよね。こうやって周りの明るさに気が付いて助けられてた。よっちゃんは、もういなくなっちゃったが、兄貴のようにいつも可愛がってくれたこと。忘れないよ。
過去の悲しみなんて囚われたくなきゃ
自分にしか出来ないやり方で脱するしかない
恨みに縛られる人生なんて、つまらないと思ったし
でも、人それぞれ傷の深さは計り知れないものだから。
悲しむ気持ちも、つらい気持ちも、少しくらいは理解したい。
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