映画『ウマ娘 新時代の扉』のここがすき〜!!!(1万字)
はい。
数日前にウマ娘の映画に関する考察の記事を出したのですが、書いているうちに『細かい考察とかより、素直に好きって言いてぇ……』と思い始めてきたので、以下好きなポイントを粛々と書いていきます。
これより下の内容は、例によって映画『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』のネタバレが満載です。
未視聴の方の閲覧はご注意なされませ。
では、参ります。
① フジキセキの弥生賞
映画開始1分で泣きました。
誇張抜きです。
後から考えりゃ推測できる始まり方だろとは自分でも思うんですが、初めて映画を観たとき、まさかフジキセキの弥生賞から物語がスタートするとは全然思ってなくて、度肝を抜かれてしまったんですね。
二回目視聴時もやっぱり泣きました。そしてYouTubeに期間限定無料公開されてからは、毎日泣いて過ごしています。
なぜ毎回こりずに泣いてしまうのか。
それは、この弥生賞が彼女の引退レースだと知っているからです。
もちろん画面の中の誰も、この時点でフジキセキのレースを見られるのがこれで最後だなんて知らない。彼女の行先に輝かしい未来が待っていると信じて疑わない。これが最後だと知っているのは、ただ映画館に座っている観客のみ……という構図。
そのため、銀幕の中でフジキセキという稀代のウマ娘が輝けば輝くほど、否応なく彼女の行く先に何が待ち受けているのかを考えてしまうのです。
そりゃ泣くだろ。
ラストスパートの演出もまた素晴らしかったですね。
アプリ版におけるフジキセキの固有スキルの名前は煌星のヴォードヴィル。『煌星(こうせい)』は輝く星。『ヴォードヴィル』は簡単に言えば演芸のことです。
映画を含むアニメ版ではこの固有スキルの存在は排されており、キャラがスキル名を叫んだり画面に直接表示されることはありません。
けれども、レースの勝負所になるとウマ娘たちが派手なエフェクトを放って加速するので、「おっ、今もしかしたらスキルを使ったのかな」などと思うわけです。
そんな中、フジキセキのスパートの演出は群を抜いて派手なので、『絶対スキル使ってンじゃん』となる。
ちなみに、ウマ娘の全アニメの中でここまで派手な演出がなされるのは、映画のフジキセキと同じく映画のタキオンだけ。(他にもいたら教えてください)
うーん、チョイスに何かしらの意図を感じるような気がする!
てか、ここのBGMヤバくないですか???
(Twinkle Miracleという曲です。みんな、サントラが燃え尽きるまで聞こう)
また、この時フジキセキに置いていかれる二番手のメガネウマ娘の表情が、皐月賞でタキオンに置いていかれるポッケと被っていて非常に味わい深いですね。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145273411/picture_pc_7952fc8580383ffe5c0ac766bf335393.png)
(どうでもいいことですが、元馬のホッカイルソーからのもじりを考えるに、「ルソー」を画家のアンリ・ルソーだと捉えているのが個人的なツボです。加えてルソーに置き換える画家がよりによってピカソ! アツい!!)
というか、調べてて気づいたんですが、彼女はこの後クラシック級を走り切って、GIに挑戦してたりする名ウマ娘なんですね。しかも、ラストランでなんとテイエムオペラオーと対戦している!!(天皇賞・春で5着)
アプリ版、フジキセキのキャラストーリー第1話で、彼女はこう言います。
常にみんなを楽しませるエンターテイナー、”フジキセキ”! それが、私のなりたい私だからね。
ここまで、映画が開始してわずか5分。
姐さん、楽しませすぎです。
② タイトルバック
映画で見せたいものを冒頭で全部見せておいて、その流れでポッケ大ジャンプからのタイトルを画面中央ぶち抜きでドン!
最高!
バックを飾るファンファーレも良すぎる~~~~~。
この後、急にポッケがデコトラで高速道路を爆走し始めても驚きません。
③ OP
曲も素晴らしいし、何よりみんな言っているけれど、ポッケのトレセン入学〜ホープフルステークスへ至る時間をダイジェストでまとめてしまっているのが素晴らしい。
限られた尺の中で展開を取捨選択して、展開を最大限に盛り上げるために、序盤の流れを限りなく短く、それでいて余すことなく伝える必要があるわけですが、このOPの流れは完璧だったんじゃないでしょうか。
しかも、ただ情報を羅列するだけでなく、フジキセキの手をブンブン握るポッケの可愛いシーンなど、単体で切り取っても印象に残るようなカットを要所に入れ込んでいるわけで。私のような素人が言うのもなんですが相当レベルが高いことをやっているのでは? と思います。
④レースシーンの描写
どのレースにも力が入っていて、最高でしたね。
やっぱりレースはウマ娘というコンテンツの華ですから。制作陣にとっては見せ場でもあるでしょう。全てが最高の一言です。
しかし、ちょっと待ってください。
今回、映画の中でしっかり描かれているレースシーンは計7つ(フジの弥生賞、タキオンのホープフル、オペラオーの有馬記念、弥生賞、皐月賞、ポッケのダービー、そしてジャパンカップで換算)です。
ちょっとレース多いかも…………。
たしかにレースシーンは盛り上がります。直接的に勝負を描いているわけですから、否応なしに観客のボルテージを上げる効果があるわけです。
しかし、この『観客のボルテージを上げる』というのは諸刃の刃になりかねません。
100分の中に7回もボルテージを上げ下げされたらどうでしょう。
普通に疲れませんか?
更に、ウマ娘のレースは、極論を言えば同じようなステージを同じような人数のキャラが走る、という性質のものです。しかもバトルのクライマックスはいつも『勝負所になると脚のアップになり、強く地面をけり込んでドンと加速』の繰り返し。
じゃあ、レースシーンを減らせばいいのかというとそれも難しい。ウマ娘の物語を史実ベースで紡ぐためには、一つの映画の中で必ず複数回のレースを描く必要があるからです。
つまり本来、ウマ娘というコンテンツは、本来長編アニメーションにする難易度がメチャクチャ高いはずなんです。
しかし!!
今回の『新世代の扉』は7回のレースを描き分けることに、限りなく成功していると言ってよいでしょう。
それは逆説的ですが、レース描写を挿入する意図を勝ち負けではないところに置いているからです。
例えば、フジキセキの弥生賞は、ポッケに彼女という憧れを植え付けるため。
タキオンの弥生賞は彼女自身の限界を示し絶望させるためで、オペラオーの有馬記念はラスボスの強さを提示するため……などなど。
単純にレースがあってこのキャラが勝ちました、という結果を見せるためのイベントではなく、物語を前に勧めるための必要な仕掛けになっていることで、たくさんレースがあってもマンネリに陥ることを防止しているのです。
それに加えて、なんとか観客を惹きつけ続けられるように、手を替え品を替え何とか視覚効果を使って巧みな演出が成されているのが、『新時代の扉』の凄いところですよね。
フジキセキの笑顔のゴール。他を絶望させるタキオンのスパート。ダンツとポッケのデッドヒート。メイショウドトウと!テイエムの圧倒的な抜け出し。それと、凄すぎてもはや何が何だか分からないジャパンカップ……などなど。
しかも全体を通して演出の強さがしっかり尻上がりになっている点も含め、素晴らしいアニメ表現だと思います。
それでは、ここで映画の中で最も印象に残ったレース第一位を発表します!
⑤ オペラオーの有馬記念
はい、優勝〜〜〜〜〜!!!!
そもそもみんな大好き2000年有馬記念ですから、アニメにするのは色んな意味で難しかったと思います。日本競馬史に残るレース。現実のレースという原作を、繰り返し見ていた観客も多いことでしょう。
このレースを映画化すると決まった時点で、ハードルが上がりに上がっていたわけです。
それを軽々ぴょいっと越えないでほしい。
⑤-a キングヘイロー
見切れてましたね。五億点です。
私はキングヘイロー号のベストレースは1999年高円宮記念と2000年有馬だと思っている民草なので、あの緑が映り込んだだけでも幸せでした。
映画の中では見せ場なく4着で終わっている彼女ですが、史実ではこれが実質引退レース。その雄姿を描いてくれただけで大満足です。
⑤-b オペラオーの主人公感
この有馬記念のシーン。
ポッケではなくオペラオーが主人公として描かれていませんか?
普通、オムニバス形式のように意図を持っていない限り、100分の映画の中では主人公をコロコロ変えない方が良いです。気が散るし、ひとりひとりに対する思い入れもその分薄くなってしまうデメリットの方が大きい。
特に『新時代の扉』はカフェやダンツの描写をある程度犠牲にしてまでポッケを主人公に据え続けた結果として、傑作になっているわけですから。なおさら、中途半端に主人公をスイッチしない方がいいはず。
けれど、この有馬記念のシーンだけは、完全にオペラオーに主人公が移っているような気がします。
そう感じた理由は、レース中に起こるあるアクシデントにあります。
レース終盤、包囲網を敷かれたオペラオーはなすすべなくバ群の中でもがきます(この年、勝ち過ぎたからです。しょうがないね)。四方をガッチリマークされ、抜け出すことはほぼ不可能。しかし、ゴールまでは残り310メートルしかありません。
覇王のここからの逆転は不可能だと、誰もが思いました。
しかも、更に不運なことに、前を行くウマ娘の蹴り上げた泥が、弾丸のように彼女の顔面を直撃します。
ここです。
『新時代の扉』において、この有馬記念を描く目的は一つ。最強のラスボス=物語の最終目標を描くことです。
「この作品はザックリ言えば、ポッケがこのラスボスを倒して最強になるという話なんですよ」という意図を観客に伝えるためのイベントなのです。
そのためには、何を置いてもまずオペラオーの最強っぷりを描く必要があります。
包囲してくるライバルを、不敵な笑みを浮かべて簡単に蹴散らすような描写がされてもおかしくない。周囲のウマ娘の絶望感あふれる表情をもっと映してもいいはずなんです。
ここでオペラオーが、少しでも隙や弱さを見せれば、観客が彼女に感情移入してしまう。「オペラオーがんばえ!!」となってしまう。
だから本来、ラスボスの顔に文字通り泥を塗ってはいけないはずなんです。
しかし、実際はどうですか!
顔面に弾丸のような泥をぶち込まれて苦しそうな表情を浮かべ、ボロボロになりながら、それでも逆転の一手を打ってギリギリでライバルに競り勝つオペラオー。
そして、苦難を打破した覇王の振り上げた拳に、観客は歓喜の声を上げる。
これでは完全にオペラオーが主人公=ヒーローではありませんか。
これは一体どういうことか。
つまりですよ。これは、1本の物語としての完成度を少し犠牲にしてまでも、ファンサービスを優先しているように見えるわけです。
もちろん、テイエムオペラオー号が有馬の包囲網を抜ける時、強引に突破しての勝利と引き換えに足もとが傷だらけになっていたのは有名な話。
それにしたって、そのエピソードをわざわざ採用したのは、『これが見たかったんだろ?』という作り手からの目配せでしかありません。
そう! そうなんです!
俺たちはこれが見たかった!
ありがとう!!!!ありがとう!!!!!
⑥ あの日、フジキセキに何が起こっていたのか
さて、ここまで長々と好きなポイントを書いてきました。
細かい箇所も含めればもっとたくさん書きたいポイントがあります(ダンツの存在感など)が、とりあえずこれが最後です。
そのシーンが訪れるのは、映画後半。
ダービーを勝ったものの、皐月賞のタキオンの幻影にとらわれているポッケは夏合宿を経ても立ち直れず、菊花賞を敗北します。
彼女を心配するフジキセキはトレーナー室に置き去りにされたポッケのプリズムを発見し、彼女のあとを追いかけます。柳の下でプリズムをポッケに渡したフジキセキは、翌朝に河原のレースコースへ来るようポッケに伝えます。
そして翌朝、ポッケの前に現れたのは、勝負服を身に纏ったフジキセキでした。
あ?
ああ……。
あああああああああああああああああああああああああああ!!!!
これ!
これですよ!!!
みなさん!!!!
このポストで一番言いたいのはここ!!
や~~~~ばいですよね、このシーン。
⚠️⚠️⚠️ 注意 ⚠️⚠️⚠️
この先、二次創作の気配が強く漂っています。
そういうのが苦手な方は、ここらで引き返していただければ幸いです。
⚠️⚠️⚠️ 注意終わり⚠️⚠️⚠️
落ち着いてください(?)
まず、トレーナー室に置き去りにされたポッケのプリズムについて。
詳しくは前回の記事を読んで欲しいのですが、私は『新時代の扉』に出てくるプリズムを、『憧れ』の象徴だと解釈しています。
映画冒頭でトゥインクル・シリーズを初めて目にしたポッケは、弥生賞を走るフジキセキの姿に目を奪われます。ここで、彼女の持つプリズムにはフジキセキの姿が一面に映し出され、フジキセキが憧れの対象になったことが示されるのです。
しかし、菊花賞の後でトレーナー室に置き去りにされていたポッケのプリズムには、なんと傷が付いているではありませんか。
これは、ポッケがフジキセキに抱いていた憧れの正の部分(『俺もあんな風になりてぇ!』)が毀損され、皐月賞のタキオンに抱いてしまった憧れの負の部分(『俺は一生タキオンには勝てねえ……』)に支配されてしまっていることを示しています。
もちろん、プリズムが憧れの象徴というのはメタ的な話です。しかし、この時点でフジキセキは、ポッケのために何かしてあげなくては、と強く思ったことでしょう。
では、自分に何ができるのか。
実は、この場面。『悩んでいる後輩のために、自分の走りを見せて勇気づける』という展開は、アプリ版のフジキセキ・メインストーリーと共通しています。
しかし、メインストーリーの彼女がデビュー前なのに対し、映画の彼女は酸いも甘いも味わった後。
この時点で、フジキセキは最後の実戦から何年も経っている状況です。ノベライズ版では、彼女が細々とリハビリとトレーニングを積んでいたことが示唆されていますが、とても気軽に『私が走るよ』なん言える状況ではない。
『走ること』に対してのプレッシャーと重みが、メインストーリーと映画とでは雲泥の差なわけです。
しかし、彼女は、決意します。
傷ついたプリズムを握りしめて、『自分が走る姿をポッケに見せる』ことを。
偉い!!!!!!!
流石に偉すぎるでしょう。人生を何周かしていないと釣り合いが取れないですよ、こんなの。
本編ではこの後すぐに、ポッケの視点に切り替わります。
仲間たちと騒ぐ気になれない彼女は一人街をさまよう中で、追いかけてきたフジキセキに声をかけられます。そこで翌朝のレースにつながっていくわけです。
しかし、この一連のシーン。
描かれていない場面について、想像の余白がメチャクチャ残されていると思いませんか??
⚠️ 以下、マジで妄想です。⚠️
少し時間を巻き戻して、フジキセキが、トレーナー室で欠けたプリズムを見つけたシーンから。
ポッケの苦悩を改めて知ったフジキセキは、なんとか彼女を助けてあげたいと思います。
しかし、どうやって?
彼女はウマ娘です。
走ることで誰かを救うことができる生き物。もしかしたら、アプリ版のメインストーリーのように、傷つき悩む新入生たちを何人も救ってきた過去があるのかもしれません。
ですが、『今の』フジキセキにとってその選択肢は、あまりに重い。
もしかしたら、プリズムを手に取った時点ではまだ、ポッケと走る覚悟はできていないかもしれません。
実戦から離れて久しい自分が、現役バリバリの、しかもダービーウマ娘であるポッケに、今更何を伝えられるというのか?
一歩間違えば、自分が傷つくかもしれない。もしかしたら場違いな行動になってしまうかも。独りよがりな行動かもしれない。
けれど、言葉で彼女を救うことはできなかった(夏祭りでの会話)。ならば『走ること』がポッケを救う最も有効な選択肢なのではないか。しかし……。
こんなことを考えていたのかもしれません。
彼女はなによりエンターテイナーです。恐れや不安などはマジシャンのように隠し、決して外に見せることはない。
疲れは忘れろ、余裕ぶって笑え! "フジキセキ"ならそうする! さあ、最後までしっかり魅せてやれ……!
しかし、世界でただ一人、彼女の奥底にある迷いを見抜ける人間が、彼女のすぐ後ろに立っている。
トレーナー・タナベだけは、彼女の背中のごく僅かな震えに気がついてしまう。
フジキセキがプリズムを手に取ったその時、後ろから見ていた彼は、フジキセキが何らかの決意と不安の間で揺れていることを悟るでしょう。
「フジ、お前……」
などとつい口走ってしまうかもしれません。
その言葉でフジキセキは、自分の内心がトレーナーにバレたことを察します。長年のパートナー関係ですから。それくらいの空気感はあるはず。
不覚にもバレてしまったフジキセキは、照れくさそうに「あはは」などと笑うかもしれません。
その微笑を見たトレーナーは、何とも言えない感情に襲われ、今までのフジキセキとの思い出の軌跡が蘇ります。
それは、フジキセキと初めて出会った時のこと。
それは、彼女と過ごした短い栄光の日々。
それは、圧倒的な才能を持ちながらケガに泣いた担当ウマ娘の背中。
そして、それは辛そうな様子を決して見せまいと笑う彼女を見ていられず、ひっそりとトレーナーを引退した日のこと。
唐突に、タナベは理解します。
今この瞬間のために、自分は彼女のトレーナーになったのだと。
精神的に成熟しているが故に、自分の弱さを隠して笑う彼女の背中を押すべき瞬間が、そしてトレーナーを引退して以来、彼女の強さに甘えて向き合ってこなかった自分の弱さと対決する瞬間が、ようやく訪れたのだと。
彼はゆっくりと立ち上がり、
「初めてお前の走りを目にした時────」
ゆっくりと語りかけます。
共にポッケの成長を見守ってきたパートナーではなく、フジキセキ自身のトレーナーとして。
「あの時、走るお前の姿が、まるで光り輝く星のように見えたものじゃ。こんなことは、長いトレーナー人生で初めてじゃった。本当に、本当に美しいと思った」
と、彼は言います。
「あれから、長い時が経った。変わってしまったもの、失ってしまったものは沢山ある。ワシにも、お前にも」
フジキセキは息を呑みます。久しく忘れていたこの感じ。トレーナーと担当ウマ娘として向き合うこの感触を思い出したからです。
咳払いと共に、『じゃが同時に、変わらないものもある』と彼は続けます。
「いくら傷つき倒れようとも、お前はまだ生きておる。そして、今まで辛い思いをしてきた分だけ、苦しい現実に立ち向かってきた分だけ、お前の輝きは────あの頃よりもずっと強くなった」
不意に彼女の脳裏に蘇る懐かしい記憶。
現役時代、彼がレース前にもこうやって話しかけてくれたこと。もしかしたら、彼女のメイクデビューの時にもこうやって背中を押してくれたのかもしれません。
「まったく、かなわないな」
とかなんとか言って彼女は少し俯く。
けれど、涙はその頬を伝うことはありません。エンターテイナーは、自分の舞台で涙を流さないものだからです。
「ありがとう────」
フジキセキはそう口にします。
もう彼のことをいつものように『ナベさん』と呼ばないでしょう。
理由は、映画を見ていればわかると思います。
……すみません。
さすがに妄想すぎたんですが、もう少しだけお付き合いいただけたらと思います。
トレーナー室を後にしたフジキセキは、いつもの面子から離れたポッケに追いつきます。
柳の下で、自分とタキオンを重ね、少しだけ自分の弱さをポッケに見せるフジキセキ。
彼女を翌日の早朝に、河原のコースへ来るよう誘うのですが……
この後!
この後ですよ、みなさん!!!
映画ではポッケが主人公なので、当然彼女の視点で画面が動きます。
「なんなんだよ……」とかなんとか思いつつ、ポッケは朝早く目覚めて河原へ行くわけです。そして、レースのシーンへ。
しかし待ってください。
ここで考えたいのは、一方フジキセキはこの夜をどう過ごしたのか、ということじゃないですか!!???
きっと、ポッケと別れた後、彼女はいつも通り寮に帰り、頼れるみんなのフジキセキ先輩として振る舞ったことでしょう。
しかし、皆が寝静まった夜、誰にも気づかれないよう、そっとクローゼットから勝負服を取り出したはずです。
寮長である彼女は一人部屋が与えられています。普段は解放されている部屋の鍵も、そっと閉めたかもしれせん。
ウマ娘の勝負服は、GIのレースを走るウマ娘にしか着ることを許されない特別なもの。そのデザインに、サイズに、細部に、彼女たちの願いの全てが織り込まれています。
怪我をして走れなくなった後、彼女は勝負服をどのように保管していたんでしょうね。
もう見たくもないと、クローゼットの奥に乱雑にしまい込んでいたのか。あるいは逆に、メチャクチャ綺麗に飾って、毎日複雑な思いでケアをしていたのか。
なんとなく後者の方があり得そうな気がする。
フジキセキが勝負服を着て走ったのは、たった一度だけ。ジュニア級王者を決めるGⅠ朝日杯でのことです。
走れば一着をとるのが当たり前だったあの頃と、そして、ひとり夜に押しつぶされそうな今。
自分はあと数時間後に、再びこの勝負服を見に纏い、レースを走る。
それが、今の彼女にとってどれほど恐ろしいことか。
初めて映画を見た時、暗い部屋に一人、勝負服を愛しそうに、そして少し不安げに握りしめるフジキセキの姿が思い浮かんできて、勝手に号泣死するかと思いました。
さて。いよいよ翌朝のことです。
勝負服を身に纏い、河原に現れたフジキセキ。その姿が意味するのは、彼女にとってこれがGⅠと同じくらい大事なレースだということ。
そして、二人は走り出します。
この時のポッケの心境は、恐ろしいほど複雑です。
自分のためを思って一肌脱いでくれたフジキセキに対する感謝。その背中を追ってトレセン学園へ来たのに、彼女がもう走れないと知ったあの日の落胆。もう絶対に一緒に走ることはできないと思っていた彼女と、こうして本気の勝負ができる喜び。
しかし、やはり。タキオンの残した残光が、ポッケの目を眩ませます。
スピードに乗り切れず、苦しい走りを見せるポッケ。
一方、少し前を走るフジキセキも、かつての自分が放った残光に目が眩んでいます。現状を過去の自身と比べて「程遠い……!」と現状に歯ぎしりする彼女。
あの頃はできていたことが今はできない。スピードも、パワーも何もかも昔に比べれば見劣りする。記憶の中の自分と、今のギャップを埋めることができない。無理をして、もしまた怪我でもしたら……。
大ケガから復帰したアスリートは、みんな同じように感じるそうです。
しかし、それでもフジキセキは走ります。
背中を押してくれたトレーナーのため。自分自身のため。そして、何より苦しむ後輩を救うため。
そして繰り出される彼女の必殺のステップ。
灯されるスポットライト。光り輝く輪を通り、舞台の真ん中へと踊り出すフジキセキ。
それは、遠い日の残光をかき消す強烈な光。過去のタキオンばかり見ていたポッケの目を、力強く今この場所へと引き戻す巨大な恒星のような引力。
そして、その背中を見たポッケは、ようやく思い出すのです。
自分の初期衝動である、弥生賞の日のフジキセキの走りを。かつての自分が、一体どんな風になりたかったのかを。
いや、こういう冒頭のシーンをリフレインする構成好(はお)〜〜!!!
![](https://assets.st-note.com/img/1719308605855-YZ7CLBWcCu.jpg?width=800)
これ以上ないフジキセキのパフォーマンス。
朝の五時、人の気配のない河原にいるのは、彼女たちたった2人だけ。世界の片隅で演じられた、ポッケだけに向けられた、フジキセキ一世一代の劇場でした。
……そこにいたのは、はたして本当に彼女たち2人だけだったのでしょうか?
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145272476/picture_pc_0a4e7c3f5d71074276a259e1a83025b2.png)
川原のコースと同じ場所?
直接描かれることはないですが、フジキセキの復活を目撃しているキャラが、もう一人いるはずです。
トレーナー・タナベ。
アンタも見てたんだろう?????
走り終えたフジキセキに水を手渡す描写があることから、彼もまた、確実にどこかで見ていたことが推測できます。
たまたま早起きした挙句にレースコースを通りすがって担当ウマ娘に偶然持っていた水を渡すのは不可能ですからね。
ただ、ここで一つ疑問が浮かびます。
どうして彼はこのレースを目撃することができたのでしょう?
なぜトレーナーは、このレースが行われることを知っていたのでしょう。
選択肢は三つほど考えられます。
① レースのことを事前にフジキセキから聞いていた
フジキセキのメンタルが鬼だった場合、事前にポッケと走ることをトレーナーに告げていた可能性は全然あります。
とはいえ、走り終えた後で、水を渡された彼女の顔を考えれば、フジキセキはこの場所にトレーナーがいると思っていなかったのでは? というような気がしますが……
② 二人が走ったコースは、実はトレーナー室のすぐ近くだった
これもありそう。この場面に差し掛かると毎回涙でにじんでしまって確認できていないのですが、もしかしたら画面端にトレーナー室の建物が書き込んであったりするかもしれません。
もちろん真相はわかりません。
しかし、今回私が推したい説はこちらです。
③ フジキセキならここで走る、とトレーナーは知っていたから
『フジキセキが大切な機会に走るなら、このレースコースだろう』とトレーナーが知っていたパターンです。
つまり、あのレースコースについて二人の間に共通認識があったとしたら。あの河川敷が、二人にとって特別な場所だったとしたら。
それは例えば、毎日2人でトレーニングしていた馴染みのコースだったのかもしれません。あるいはここで大きなケンカや仲違いをした日があったのかもしれない。
あるいは、この場所で二人が初めて出会ったのだとしたら、どうでしょう???
フジキセキがトレセン学園に入学した時、ベテランと呼ばれて久しくなっていたタナベトレーナーは、長きにわたるトゥインクル・シリーズでの戦いに疲れ切っていたのかもしれません。
トレーナー業は過酷な職業。もう一度新しい担当ウマ娘をスカウトして、数年にわたってトゥインクル・シリーズに挑むのは、考えるだけでうんざりする。
もう、引退してしまおうかなんて考えていたその日、トボトボ河原のレースコースまで歩いてきた彼は、1人のウマ娘に出会ったのです。
まるで光り輝く煌星のような奇跡の才能に!
あるいは、そんな過去エピソードがあっても不思議ではないかもしれません。
もしそうだとしたら、始まりの場所で、あの日と変わらぬフジキセキの走りを目にしたトレーナーはどんな風に感じたでしょう。
少なくとも、私だったら思わず嗚咽で川の支流を一本増やしてしまうと思います。
はい。もう流石に疲れてきたので終わりです。
それで、走り終えたフジキセキに、トレーナーは水をそっと差し出します。
日頃の意趣返し。驚く彼女の顔。
そして────
彼女は今度こそ、久しぶりに彼を「トレーナーさん」と呼ぶわけですね。
Twinkle Miracle......
姐さん。100億点です。
◇ 終わり ◇
すみません。
益体もない妄想をダラダラ書いてしまいました。
映画をそんなにたくさん見られているわけではないので、普通に大きなミスを犯している可能性はあります。
何か間違いを発見された方は、優しく教えていただければ幸いです。
では。
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