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ウマ娘は走るために生まれてきたのか 〜映画『新世代の扉』の感想です〜


ウマ娘。彼女たちは走るために生まれてきた。

 映画で、アニメで、小説で。ウマ娘の物語は、必ずこのフレーズから走り出します。どの媒体でも使われているこの言葉は、このコンテンツのキーコンセプトと言える存在なのかもしれません。

 ですが、私には、このフレーズを聞くたびに毎回毎回思うことがあります。



そんな訳あるか〜〜〜〜〜い!!!!!




 ……例えば、彼女たちを『走るために生まれてきた』と定義してしまった場合、不幸な事故で脚を失ってしまったウマ娘は、あるいは病気や老齢で寝たきりになったウマ娘は、なんだと言うのでしょうか???

 きっとあの世界には、生まれつき歩くことのままならない身体で生まれてきたウマ娘だってたくさんいるでしょう。そんな娘たちが、『走るために生まれてきた』なんてフレーズを目にした時、どういう気持ちになるでしょうか?????

 はい。

 私は『存在しない属性の人のことを勝手に妄想して義憤に駆られる狂人』です。
 けれど、いくら私がおかしな人間であることを差し引いたとしても、少し考えれば疑問符の付くようなフレーズが繰り返し媒体を超えて使われ続けているのはどうしてなのか、気になりませんか?

 仮に、『人間。この生き物たちは働くために生まれてきた』とか言われたら、ちょっと待てと言いたくなると思いますけどね。(考えるために生まれてきた、とかだったらまあ……となるけれど、それでもちょっとヤダ)

 というか、現実の競走馬を下敷きにしているコンテンツなことを考えると、かなり生々しい表現のような気もしてしまいます。(もちろん、現実の営みを否定している訳ではありません。念のため)

 とにかく、私はウマ娘の物語に触れるたび、このフレーズについてずっとモヤモヤ考えてきました。

 しかし!

 そんな折、公開された映画『新時代の扉』の中に、このフレーズを上手く解釈するカギを見つけたのです!

 そして、そのカギはあのプリズムの中に隠されていました。

画像下部、ポッケが手に持っている物体のことです。

 私と同じモヤモヤを抱えていた狂人の方。上の文を読んで少しでも「そうかもね」と思ってくれた方。
 よければ、これから一緒にあのフレーズについて考えてみませんか。

 「は? そんなん別に知らんけど」と思った方。
 安心してください。普通に映画の感想でもあるので、ぜひ読んでいってください。

 公開から一ヶ月近く経つのでネタバレも何もないと思いますが、一応以下の文章の中には劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』のネタバレが満載ですので、お気をつけてくださいませ。

では、参ります。



◇フレーズを変換してみる


 ウマ娘は走るために生まれてきた。

 まずはこのフレーズを読み解くために、意味を変えないよう、少しだけ文章を変換してみましょう。

 ウマ娘は走るために生まれてきた。ということは、ウマ娘は走るために生きている、とも言えるでしょう。
 このことから、ウマ娘にとっては『走る』と『生きる』が直接的にイコールで結ばれていることが分かります。
 つまり、彼女たちにとって『走りたい』は『生きたい』と同義なのです。

 以上の簡単な変換が今回の解釈全体の前提になります。
 よければ覚えておいてください。

 さて、この前提とともに、解釈のカギとなる例のプリズムへと切り込んでいきましょう。

◇プリズムは何を意味しているのか?

 映画冒頭からポッケが後生大事に握り締め、一度は失いかけるも、フジキセキの手によって戻ってくるあの光。あるいは、タキオンの座席上部に掲げられていて、理科準備室を怪しく照らすあの光。

 あのプリズムの存在について、劇中では直接触れられることはありません。そのため、あの物体が何を表しているのか、多様な解釈が観客に委ねられています。

 何が正解というわけではありませんが、ここではシンプルに、あのプリズムを『憧れ』の象徴だと仮定します。
 これは、主題歌 "Ready‼︎ Steady‼︎ Derby‼︎" の初めの歌詞が『走って 走って 憧れを超えて』であることからも、極めてストレートな捉え方なのではないでしょうか。

 憧れ。ウマ娘にはお馴染みの概念ですよね。スペシャルウィークにとってはサイレンススズカ。トウカイテイオーにとってはシンボリルドルフ。などなど。

 憧れは、常に『今の自分自身以外の何者か』が対象であり、つまりそれは『他者』に対する感情です。
 今の自分自身では手が届かない存在に対して、「自分もそうなりたい」、「ずっと見ていたい」と見上げるのが、憧れの基本的な形です。

 映画に登場するウマ娘はどうでしょうか。
 例えば、ポッケにとってはフジキセキがその対象です。トレセン入学前の彼女が手にしているプリズムには、クッキリとフジキセキの姿が映し出されており、彼女がポッケにとっての目標であることが示されます。
 例えば、ダンツにとってはポッケが憧れの対象になるでしょう。プリズムこそないですが、彼女の目に映る同期とポッケは、彼女にとってライバルというより憧れの方が近いと思います。同じく、仮にドトウがプリズムを手にすることがあれば、きっとオペラオーがその光の中に映り込むことでしょう。

 では、タキオンにとっての憧れとは?
 彼女には、誰か憧れるような対象はいるのでしょうか。もし、先ほど仮定したように、プリズムが憧れの象徴ならば、理科準備室の窓辺に下げられた彼女のプリズムには、彼女の憧れの姿が反射しているはずです。

 先に、憧れは他者、つまり『今の自分自身以外の何者か』に対する感情だと述べました。
 この『何者か』は具体的な誰かウマ娘ではない場合もあります。例えばカフェならば、『あの娘』がここに当てはまるでしょう。

 翻って、タキオンの場合。

 彼女のプリズムに映っているのは、ウマ娘の限界を超え得る『誰か』の影です。
 種としての可能性を追い求める彼女にとっては、その限界を壊して先を進む可能性そのものが憧れになっています。
 きっと、タキオンは生まれてからずっとその可能性に憧れて走ってきたのでしょう。(冒頭でチラッと映る幼タキオン、可愛かったですね)その点では、フジキセキに憧れて走るポッケと何も変わりません。

 『憧れの存在に近づきたい』。素晴らしく前向きで、希望に満ちていて、一見すると良い感情に思えます。

 しかし、光あれば影あり。自らの両の脚で憧れに近づいたタキオンは、やがて弥生賞の芝の上で『自分では憧れを越えることができない』ことに気がつき、絶望します。そして、皐月賞でその絶望を他者に拡散し、自らは走るのを止める。

 憧れには二面性があります。一つは、誰かの希望となるポジティブな面。そしてもう一つは、誰かを絶望させるネガティブな一面です。

 タキオンが絶望の淵に立つその一方で、ポッケのプリズムには皐月賞のタキオンが映り込みます。その影はあまりに速く、敗れたポッケを絶望させるほどに暗い。

 ポッケにとってフジキセキは走る理由となる正の憧れでしたが、タキオンはその理由を見失わせる負の憧れとなってしまったのです。

 余談ですが、ダービー後の夏祭りのシーンで、フジキセキとポッケがラムネを飲む描写がありましたね。
 一般的にラムネを飲むためには、まずキャップを飲み口に押し当て、炭酸がこぼれないようにビー玉を押さえつける必要があります。 
 この時の押さえつける手が、絶望するポッケの頭を押さえつけるもう一人の自分(皐月賞のタキオンの幻影)の手と重なり合っています。そして、この時のビー玉はプリズム=『憧れ』の象徴。

 結局、ラムネを飲むためにはキャップを取り払い、ビー玉(憧れ)を超えて炭酸を飲み口まで誘う必要があります。
 その後のフジキセキの行動を踏まえても、非常に見事な描写なのではないでしょうか。

 閑話休題。

 さて、憧れのもたらす希望とは『自分も誰かのようになりたい』と考えることでした。この場合、憧れが引き寄せる絶望とは『自分は他者になれない』という考え方になるでしょう。

 先ほど例に挙げたスペシャルウィークにとっては、(少し間接的ではありますが)秋の天皇賞で大ケヤキの奥で倒れ込むスズカの姿であり、テイオーにとっては破り捨てられた『無敗の三冠』の張り紙がそれに当たります。

 ポッケはタキオンになれません。彼女はもう皐月賞のタキオンを超えることができない。彼女は既にターフを去ったからです。
 そして、一方のタキオンも、もはや種としての限界を超える何者かになることはできません。彼女の脚は皐月賞で壊れてしまったのですから。

 憧れがもたらす絶望を、あるいは『自分は他者の代替物にすぎない』と考えてしまうこと、と言い換えることもできます。

 『誰かになれない』と『誰かの代替物にすぎない』は一見正反対に見えますが、唯一無二であるはずの自己を、他者と同じモノサシで計ってしまうという点で共通点を持っています。

 タキオンにとって、当初カフェやポッケが自らの代替物でしかなかったことは、彼女自身の独り言からも明らかです。
 しかしこの考え方は、自己を他者と同一の線分の上に並べることに他ならず、タキオン自身がポッケやカフェの代替物になる可能性を孕んでしまっているのです。

 そんな訳で、ポッケもタキオンも、憧れの代償として絶望に沈んでしまった訳ですね。


◇ウマ娘にあって、ヒトにないもの

 ウマ娘は走るために生まれてきた。
 このフレーズを解釈するために、ウマ娘と我々ヒトの最大の違いがどこにあるのか、ということを考えてみましょう。

 それは、ウマ娘たちが種として持っている、とある特殊技能に隠されています。

 我々ヒトと、ウマ娘との違い。
 身体的な構造を別にすれば、一見彼我の間に精神的な違いはなさそうに見えます。勝負に勝てば喜び、負ければ泣くのも同じ。同じように怒り悲しみ、そして笑う生き物。

 しかし、クライマックスのジャパンカップを思い出してください。
 最強になるべくオペラオーに挑むポッケの決死の走りを見たダンツは、カフェは、そしてタキオンはどうなったでしょうか。
 もっと言えば、弥生賞のフジキセキを見たポッケは、そしてダービーのポッケを見たフジキセキは、何を思ったか。

 皆一様に、他者の走りを通して『自分も走りたい』という気持ちを抱いていることがわかります。

 同じ『走りたい』でも受け取り手との関係によって、微妙なニュアンスの違いはありますが、この『走ることによって(言葉よりも深く)思いを伝えることができる』という点にこそ、ウマ娘のウマ娘性は最も表れているのではないでしょうか。

 以上は全て私の妄想に過ぎず、原作で語られていることではありません(記憶力の悪い私に、どこかで言及があったら教えていただけると大変喜びます)。

 しかし、この妄想もあながち間違いではないということが、映画本編の脚本の流れで示されているような気がしてなりません。

 タキオンの(事実上)引退に落ち込むポッケに対し、タナベトレーナーはフジキセキの話を持ち出してポッケを奮起させようとします。あるいは、夏祭りの花火の下、フジキセキはダービーの感謝を伝えることでポッケを元気づけようとします。

 しかし、言葉による語り掛けでは、絶望するポッケの精神を本当の意味で癒すことはできません。ポッケは絶望から立ち直れないまま、菊花賞で敗北します。

 彼女を本当の意味で絶望から救ったのは、フジキセキの走りです。

わざわざ『言葉で救うことができない』ことを描いてから『走ることによって救う』描写を挿れているのが、その証左だと思うのは考え過ぎでしょうか。

 先ほども述べましたが、映画に登場するウマ娘は皆、誰かに憧れています。
 今作の影の主役であるフジキセキの憧れ、それは『ケガをする前の過去の自分』です。4戦4勝。圧勝しながらも未だ底の見えないポテンシャル。幻の三冠ウマ娘、フジキセキ。

 しかし、彼女は憧れになることができない。時は戻せない。彼女の時代は終わったからです。幻は、しょせん幻のまま。

 不真面目な引用で恐縮ですが、絶望とは死に至る病という有名な言葉があります。

 ケガに選手生命を絶たれ絶望し、走りたいという気持ちを抑えて生きていたフジキセキ。しかし彼女は、自分の夢を引き継ぐ者としてのポッケのダービーからメッセージを受け取ります。

 もう一度『走りたい』と。

 ここで、今回の解釈の前提を思い出してください。
『走りたい』は『生きたい』でした。

 憧れの持つもう一つの側面。それは、他者に『希望』、つまり『生きたい』=『走りたい』と思わせることです。
 ポッケが最初に弥生賞のフジキセキの走りから受け取ったように。あるいは、クライマックスで、ジャパンカップのポッケの走りからダンツが、カフェが、そしてタキオンが受け取ったように。
 その思いに触れたタキオンがどうなったかは、ご存知の通りです。

 ここで重要なのは、おそらくウマ娘は、発信者の意図をほとんど損なうことなくメッセージを伝えることができる、ということです。

 例えば、人生に絶望している人に対して「その気持ち分かる分かる。辛いよな。でもさ、みんな頑張ってんだし、お前も頑張ろうぜ」などと声をかけてみましょう。

 おそらく、普通にぶん殴られるか、その人の心のシャッターは永遠に閉店したままでしょう。なぜなら、言葉によるメッセージではいくらでも取り繕うことができ、受け取る側も邪推してしまうからです。

 しかし、ウマ娘の走りによるメッセージは、発信者の意図を言葉よりも遥かに強く、純粋に伝えることができる。
 なぜなら、走るという行為が種としての根源に関わっている生き物だから。

 走りは嘘をつけない。そして、そのことを受け手も分かっているから、気持ちが伝わるんです。


◇ウマ娘は走るために生まれてきたのか?

 ウマ娘たちには、走ることによって、『走りたい』=『生きたい』というメッセージを伝達する能力がある。

 長々と書いてしまいましたが、これが本文の結論です。
 そして、この答えによって、もう一度初めのフレーズを解釈してみます。

 ウマ娘は走るために生まれてきた。
 その一方で、様々な理由で物理的に走れなくなったウマ娘たちがいる。

 けれど、さまざまな理由で走ることができないウマ娘たちですら、他のウマ娘が走ることによって救われる。
 なぜなら、彼女たちも走るために生まれてきたが故に、他者の走りから『生きたい』という圧倒的なプラスのメッセージを直接的に受け取ることができる生き物だから。


 こう解釈すれば、問題の『走るために生まれた』という箇所も、なんとか前向きに捉えることができるのではないでしょうか。

 主題歌 "Ready‼︎ Steady‼︎ Derby‼︎"にはこんな歌詞があります。

生きてく 意味なんて ぶっちぎった後で ついてくる

 おそらく、「ぶっちぎる」という表現には、憧れの誰かに勝つということではなく、走るという行為そのものに重きが置かれている。(走らないとぶっちぎれないので)
 つまり、「生きていく意味とかは、とりあえず生きてみてから考えようよ」くらいの意味だとは思うんですが、これこそウマ娘の走りが放つ最大のメッセージなのではないでしょうか。

 極論を言えば、ウマ娘とは憧れをめぐる連鎖の物語です。
 競走馬に脈々と流れる血の連鎖が、馬を超えて乗り継いでいくジョッキーたちの物語が、厩舎の、馬主の、そしてファンたちの想いの連鎖が、ウマ娘においては憧れとなって結晶している。

 だからこそ、ウマ娘は素晴らしい。そう思っています。

 それでは。

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