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ナイジェリア、レストラン、原罪、アートフォーム、未来の食

誤解を恐れずに言えば、僕はすべての飲食業が飲食サービス業や小売業である必要はないと思っている。

ナイジェリア駐在中、かつてない振れ幅のさまざまな食べ物を食べ歩いたことが、僕のうまいもの修業におけるコペルニクス的転回だったわけだが、そこで「美味しくて安全なものはもちろんだが、美味しくなくても、不味くても、時に人体に危険なものであっても、それによって自分が今いる世界をリアルに知覚することができるなら、それは口に入れて味わう価値がある」というアイディアが生まれた。そのアイディアとそれに付随する技術や知識を誰かに伝えたいというだけの理由で、僕はレストランを始めた。

人は脳と肉体の間に常に矛盾を抱えながら、自然と社会の間に存在している。肉体を維持するために人は自然を加工して口に入れなくてはならないし、食べたものについて考えて理解しなくてはならない。
食べるという行為(=肉体の維持)のために食材を調達・生産することや、他の生命を奪う行為を正当化できる同時代のロジックについてもっと考え続けたいと思ったとき、既存のビジネスの中ではレストランが一番それができそうに感じられたのだ。つまりサモトラは、学術研究業や専門・技術サービス業に近い感覚で営業している。今でも。

サモトラの目的は何だと誰かに訊かれたら、「食べ物によって、われわれ一人ひとりが、現代の生活と乖離した旧い神話や人間不在のテクノロジーによらずに、自らの意思によって、脳と肉体を新しく『人文的に』つなぎかえ、『原罪』を乗り越える可能性を提示すること」と僕は答える。その目的のために生み出される料理は、新奇な調理技術や高品質な食材に立脚することなく(それらを常に採用しないわけではないが)、グランヴァンやプレミアム日本酒と楽しむ必要もなく(個人的には好きだけど)、『普遍的な美味しさ』や『本質的な美味しさ』についての議論からも遠く離れたところに、ベンヤミン的な圧縮を経たアートフォームとして成立するだろう。

食の未来像とは、料理における到達点や目的が、そこに至って初めて分かるような、真に美学的な創造のプロセスの先にあるものだと思う。それは『嗜好品』ではなく『思考品』を作り出すことに他ならない。プラントベースのチキン(この概念に誰も異を唱えないことがすでに思考停止状態だ)やコオロギを既存の料理フォーマットに上手に取り込むこと、ではない。

画像は、2023年7月のコース内の一皿と、それに合わせたスペインの赤ワイン。中村シェフが今回も、料理的な『踏み絵』をためらいなく踏んだな~、と感じる料理。そこにどうしてこのワインが合うことが分かったのか、どうして合うのか、当の僕は今でもわからないが、僕のペアリングの新たな引き出しとなったことは確か。

こういうことが毎月できているということは、サモトラがちゃんと機能している証だと僕は思っている。たとえ誰も来ない金曜日があっても。

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