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挨拶は「必要」か?その是非と効果について。

「いじめはいじめられた方にも問題がある」という話は割と聞く話ではありまして、だからこそこういう発言を公然とすると「加害者を擁護するな」とか「被害者になっても文句言うなというのか」とかいう脳死炸裂直球ブーメランワードが飛んできたりする世の中みたいでして、その辺がSNSで議論なんかできねえよって言われる話だったりします。

こういう、感情の起伏によって起きる事件、事案等についての議論というのは、こういう脳死炸裂直球ブーメランワードを繰り返しチェケラッチョする人たちによってSNSという超広めやすい媒体があるにも関わらず、解決方法に向けての建設的な議論とかその意義みたいなものを広めるように使えないがゆえに、脳死炸裂直球ブーメランワードチェケラッチョ現象のほうが広まる結果になっているような気がします。

挨拶とは?

例えば、タイなどはそもそも「挨拶」という行動がありません、という話です。一方で「挨拶」をすべての人間関係の出発点と捉えて、「挨拶なしでは始まらない」と考える人が多い日本のような国もあります。

その証左、という話ではないですが、英語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語、日本語、と挨拶の言葉を比べると、

英語:ハーイ
フランス語:ボンジュール
イタリア語:チャオ
中国語:ニイハオ
韓国語:アンニョンハセヨ
日本語:おはようございます

となります。日韓だけやたら長いってのはおわかりいただけるかと思いますが、逆に言えば、それくらい「挨拶の言葉」について長く発音したい、という文化的価値観がある気がします。確かに、日韓についても「アンニョン」「おはよう」と、短く挨拶をすることはありますが、それは、それが日常になっている場合だけです。

おそらくですが、これにはやはり宗教が文化に影響を与えていると思います。韓国は儒教が、日本では神道がおそらく「挨拶」をはじめ「作法」を重視する文化の下地になっているのではないかと思います。

儒教は「礼節を重んじる」というのは有名ですし、神道にも「神事」という儀式的な手順を長時間踏む工程が各地で残ってたりします。日本では特に、「国民はすべて天皇の子孫である」という前提で発展してきた国ですし、八百万の神思想とも相まって、「対面している人にも神が宿っている」という価値観によって、「挨拶は相手の神に対しての簡易的な儀式」という意識が無意識的に働いているように思います。

挨拶は「必要」か?

つまりは、そもそも「普通」の「文化的」な「日本」の「教育を受けた」者であれば、「挨拶は必要か」という疑問が、疑問として認識されることすらないのではないか、という気がします。

ということは、その疑問がメディアなり、SNSなりで「新しい価値観」みたいなノリで拡散すること自体、「教育の敗北」なんじゃないかとも思います。

とはいえ、「タイなどはそもそも「挨拶」がないよってのはどう説明するんですか?」みたいなことも思う人もいるかもしれないので、あえて答えを探すと「タイ人は対人関係に興味がない」からなんじゃないかなと思います。ていうか、そういう風にしか思えないですね。個人的に。

それが良いか悪いかというのは、結局多数派かどうかという話で、「タイはそういう人が多数派」だから挨拶がない、「日本は挨拶せんやつ亡ぶべしという人が多い」から挨拶拒否ひとつでバズる、と、そういう事なんだと思います。

「挨拶前提文化」へ一石を投じることはどういう事か

「郷に入っては郷に従え」という個人的にはあまり好きでない言葉がありますが、実際問題これは対人サバイバルにおいての至言でありまして、「郷に入らずんば、つまみ出される」ということは、本当に日常茶飯事であります。まぁ、海外でステイすることとかないんで日本限定ですけど、少なくとも日本では恐ろしいことにそれが「普通」です。

要は「日本」という国は「挨拶」という合言葉で「日本社会」という門を開いてもらう儀式をしている、ということであり、挨拶しない人はそれを知らない人、という裁定で門が閉じられる、という文化であるということになります。

そうなると、まぁ、「日本において挨拶をしない人」ってのは、日本人じゃない人か、無知か、バカか、無教養か、対応するに値しない人か、敵か、くらいに相手に思われても文句は言えない、ということになります。

とはいえ、「挨拶しない奴はみんな敵だ!」みたいに言うのもちょっと違わんか?とは思いますし、「無礼を働く無法な輩に助ける道理はござらん!」というのもちょっと違わんか?とも思ったりする昼下がりでございます。

最近、マイ徒然草でも綴ろうかとか思ってます。よろしくお願いいたします。


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