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学校の役割について、寓話「賽の河原の石積み」からひも解く、現代の闇

直近で、某専門学校がYoutuber養成課程というのをはじめますよっていうのが、各種メディアを通じて冷笑をもって駆け巡っております。

ぶっちゃけこういう話ってそれこそ昭和の時代から、名を変え品を変え人を変え脈々と続いているわけで、実際的な話、この手の話ってもろもろに関係する人々ってのは客を含め端から端まで概ねわかってるやん、っていうテンプレなわけです。

じゃぁそれならば、それをわかっててなぜやるの?っていう疑問があるかと思いますので、今回はそのあたりの話を割とざっくり書いていきます。割と闇が見えるかなと思う程度には書けるといいなって感じです。

「○○養成なんとか」というサービスはどういう人が買うのか

まぁ、この手の話やサービスって広告されるとすぐに「詐欺だ!」「無意味だ!」という人がかならず一定数いるんですが、ぶっちゃけ、それを買う人ってそれがわからないのか?というと実はある程度はわかってます。

要は学習塾とか、ピアノ教室とか、英語学習教材とか、ボイストレーニング講座とか、イラスト講座の通信教育とか、もっと言うと「なんとかビジネス養成セミナー」とか、その延長線上にあるもろもろの新しめのスキル紹介サービスっていうだけの話なわけです。根っこは「学校」です。

つまり、この手の商品を買う人は少なからず過去にそういうサービスを受けていたことがある人なわけで、てことは、その辺のイメージってのは概ね察しがついているわけです。

じゃぁ、なんで買うの?って話になると思うんですが、こういうのに申し込む人たちってのはだいたい以下のような人たちです。

・みんなが学んでいる場の雰囲気が好きな人
・まとまった量の課題集が必要だと思っている人
・切羽詰まってる人
・受け身な人、楽したい人
・講座全体の中で申し込んだ瞬間のテンションがマックスな人

まぁ、こういう人たちって一つ大きな共通点があってそれは

「今までやったことのないことを習慣化させることが超絶苦手」

ってことです。上二つは学校という枠組みの中で作った習慣を抜け出すことができない人だし、三番目はある程度のスキルを身に着けることができてないから超絶焦ることになってるわけだし、あと二つは習慣化するまでのハードルを越えられないわけです。

なので、要はみんなそのセミナーがどんなもんであるかとかはそのジャンルに対しての興味だけなので、それを売る人はできるだけ母数が多いジャンルを選定しているだけだったりするわけです。

「学校」や「家庭」で「教育」は行われているか

よくある未成年者を対象とした学力に関するアンケート調査の結果として「朝食を毎日食べる人は学力が高い傾向にある」とか「毎日決まった時間に寝起きている人の学力は高い傾向にある」とかあると思うんですけど、それはなぜかっていうのを、ひとつ、よくよく考えてほしいわけです。

なぜ、学校は決まった時間に始業して、時間割があり、日程表があり、イベント行事があるのか、っていうことをもっと真剣に考えてほしいわけです。

もし巷がいうように本当に、「従順な企業戦士を量産するため」とか「集団行動を乱さないようにするため」という理由で学校があるとしたら、学校というシステムは必要ないわけです。授業も、時間割も、イベント行事もいらないわけです。

つまり、学校が本当に目指している教育とは「学生に習慣化スキルを獲得させること」であり、おそらく義務教育においては昔はそれが暗黙の了解として教師方に当然の意識としてあったことが今では完全に破壊されたため、大学であったとしても、出席点がどうのこうのとか、宿題提出がどうのこうのとか、そういうことが出てこざる得ない状態になったのではないかなぁと思います。

「賽の河原の石積み」の本質とは

「現世で幼い子供が死ぬと三途の川のほとりに連れていかれ、石を積まされる。ある程度積むとどこからともなく鬼が現れ、ひたすら崩して去っていく。そういうことを繰り返しているとある時、それを見かねた仏さまがその子供をお救いになる」というのが、賽の河原の石積みの話なんですが、これって習慣化の道筋を寓話にしたよねって思うわけです。

てことは、ひとつ、この教育や訓練に対する一般的なイメージがそのままこの寓話に表れているのではないかなぁと思います。

となると、救い=習慣化の獲得で、学校では鬼=教師だし、それ以外では鬼=周囲の反応ということで間違いないのかなぁと思います。

で、ここで腹が立ってほしいのは、積んだ石を崩すのは「鬼」とはどういうこっちゃねん、っていう点と、積んだ石を崩した鬼が「どっか行く」ってなんでやねん、っていう点なんですね。

ってことはつまり、日本ではいわゆる「習慣化スキルの獲得させる」というような教育をやったことがないってことなわけです。昔から。

例えば、崩された後に積んだ石の悪いところと良いところを指摘されてそれを繰り返した、っていう話ならその鬼は「鬼」という表現だったろうか、と思いますし、そもそも石を積むのが子供なんですよね。習慣化できないやつは無能とか、未熟者とか、そういうイメージがどうしてもあるってことです。

現実にも、学校とか塾とかその辺ふくめ、割といろんなところに結構な割合で「鬼」がいるわけです。自分では壊れかけのレコーダーみたいに淡々と説明するだけで、いつ聞いても同じことしかいわないとか、本人の謎命令に首をかしげるとすぐにののしってきたりとか、質問してもすぐに「なんでわからないんだ」とか「これがわからないのはあなたがバカだからです」とか言っちゃう「鬼」がいるわけです。

まぁ、能力の指摘については割と正論ではありますが、だからと言って万事解決!みたいな感じにはならないし、むしろ鬼同士が謎のマウント取り合戦を繰り広げる光景を見て何がよくなるかというのもないわけで、個人的にはそういう社会的全体に教育ネグレクトというべき状態が広まってることが情弱ビジネスとか末端店員の悲惨なノルマとかその辺がなくならない原因なんだろうなと思う次第でございます。

まぁ、みんな自分の人生で経験したようにしか人には教えられないし、そこから外れるのは謎のリスクを感じるし、人の成長が自分の成長であり、自分の成果として人が成長したことを確認できる瞬間が一番の幸せ、みたいな価値観の人が教師になったとしても、それ無能やバカはコスパ悪いから無視するよね、ってなりかねないってのもあるので、根深い問題だとは思うよねっていう。

まぁ、この日本、言ってしまえば何世紀も同じ状況なんで、人になにかを期待するのはあきらめて自分で何とかするとか、途中でにっちもさっちもいかなくなったものは投げ出して別の方法を考えるとか、いろいろ我慢できなくなったらはだしで逃げ出して山にこもるとかすればいいのかなと思います。

さて、音ゲーすっか。

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