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21世紀の女の子の一人として


先日ようやく観に行けました、『21世紀の女の子』。

本作は山戸結希監督が企画・プロデュースを手掛けた、1980年代後半から1990年代生まれの新進女性映画監督15名による短編オムニバス映画。「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」という共通のテーマで制作されている。

どのような想いのもとにこの映画が作られたかは、是非公式サイトを見てほしい。そこのマニフェストでも書かれているのだが、15名の監督の最後の一枠は公募により選ばれた。

実は、私も応募していた。
自分が選ばれなかったことへのマイナスな感情が全くないと言えば嘘になるけれど、理想に届かなかったことには必ず理由があるのだからそれは素直に受け止めたいと思った。そして何より、応募するためのお話を考えている時の楽しさと、これから出来上がる作品に対する期待が、選ばれなかった悲しみに遥かに勝っていた。

そのため、金子由里奈監督が選ばれた際には祝福の言葉と共に、「同年代である山戸監督の企画に対する想いには強く共感できたし、公募に参加した時点ですごくパワーをもらえた、絶対に女性をエンパワメントするものになるであろう本作の公開を楽しみにしている」、という旨のツイートをした。

すると、山戸監督が私のそのツイートをRTした後、こう呟かれたのだ。

「本企画の発表後、短い募集期間のキャストオーディションには総数約2000名のエントリー、そして監督公募には、厳しい応募条件にも関わらず、約200名のご応募をいただき、まるで命を浴びるような選考となり、『21世紀の女の子』に対して、共感を超え、共鳴しながら差し出してくださった魂を、何よりも大切に、受け取らせていただきました。私は今でも、ご応募してくださった方のことを、今回ご一緒することが(天文学的確率のために)叶わなかったとしても、同志だと、体の芯から深く感じてしまいます。」

このツイートを目にした時、監督は、この作品は、誰一人とりこぼすつもりはないのだと卒然と悟り胸が熱くなった。この映画は全ての女の子のためのものになる、と。

実際に先日スクリーンで観た本作は、まさにその想像通りのものだった。
撮る人、撮られる人、そしてスクリーンの前で観ている「わたし」を、豊かな映像をもって包み込んでくれる。 それは様々な女の子の想いや言葉が絶え間なく流れ込んでくる強烈な2時間。
共感とも感情移入ともまた違う。私はこの子達を知っている、という感覚。
そこに映る女の子の強さも、弱さも、美しさも、情けなさも、生き辛さも、すべて。私が知っている女の子だった。

その夜、帰宅した私は、東京国際映画祭で本作の監督や演者の皆さんがレッドカーペットに降り立った写真を改めて眺めていた。総勢39名。画面からこちらに突き抜けて来るエネルギーに嬉しくなった。勇気づけられた。

幾度となく、今もどこかで消費され、勝手に対立させられる女の子たち。私たちはそんなことのために生まれたわけでも、存在しているわけでもない。女性が手を取り合い、尊重し合い、何かを生み出すことが珍しいわけでもなんでもないことを、私たちは知っているし、この作品は証明してくれている。
押し付けられたジェンダーロールに傷付き、もがき苦しんでいる女の子たちは今もまだそこかしこにいるけれど、救いは、時間が止まることなく流れていること。世界は常に変化している。

私たちの前に、光は確かに差し込んでいる。
光を遮るものに心を折られないように、
悲しみや悔しさに目がくらんで光を見失ってしまわないように、
大人になった今、この光を次の世代へ示してあげられるように、
この光を更にまばゆいものにしてあげられるように、作らなければ。

義務でも見栄でもなく、まっすぐにそう思わせてくれる作品だった。

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