手をつなぐきっかけ

それは、夫と結婚して21年目の2019年の秋だった。春から、ずっと腰の痛みを訴えていた夫の容体が急激に悪化して、彼はバスで通勤するのも困難になっていた。ある朝、彼は激痛でベッドから起き上がるのもやっとのことで、心もとない足取りで、ゆっくりと階段を一段一段降りてくると、「病院へ連れて行って欲しい。」と言った。以前にも、私達には似たような経験があった。

一人目の子を授かって5か月の頃、朝起きてリビングに降りてくると、夫が苦しそうな表情でソファに丸くなって座っていた。「胸が痛い。病院に連れていってくれないか。」救急車を呼ぼうとしたが、本人が大丈夫だと言い張るので、私の運転で救急病棟に連れて行った。診断結果は肺炎だった。「君の誕生日なのに、こんな事になってごめん。」と、彼は弱々しい声で謝った。2週間の入院の後、2週間の自宅療養が必要だった。当時パートで社会福祉の仕事をしながら、大学へ編入して通学し、実習もしていた私は、職場の上司や大学の教授と相談して、一旦全てを休むことになった。お腹の子と私の体調、そして夫の容態を周囲が皆気遣ってくれての判断だった。娘が生まれる頃には、夫の体調もすっかり回復していた。

それから5年後に息子も生まれ、家族や友人、近所の人たちに支えられながら日々忙しく過ごしてきた。そして2018年、夫の会社が規模を縮小することになり、希望退職者を募った。結局3000人以上の社員が辞める事になったが、まだ残っていた夫は少人数の社員に任された残務処理と、新入契約社員のトレーニングに追われていた。その年の11月下旬に、私が夕食の支度を始めようとしていた時、電話が鳴った。実家の母から、弟の急死を知らされた。くも膜下出血だったと聞かされても、取り乱した私の口からは、「うそだ!うそだ!うそだ!」という言葉しか出てこず、母は一度電話を切った。再び実家からの電話がかかり、私は一刻も早く、カナダから日本への航空便を手配するからと伝え、すぐに旅行会社に連絡した。翌日私は飛行機を2度乗り換えて実家に戻り、私と同様に、弟の死を受け入れられない家族と再会した。最後に私が弟と会ったのは、その5か月前の夏休みに、家族で里帰りをしていた時だ。私たちを楽しませるためにいろいろしてくれた弟が、空港へ見送りに来てくれた際、別れの淋しさに涙をこらえたくて、私はぶっきらぼうに「ありがとね。」と言い、側にいた夫が「それだけ?」と目を丸くした。弟は笑っていた。夫が心から礼を言うと、「今度僕たちがカナダに言ったら、よろしくお願いします。」と弟は言い、夫は「任せといて。約束だから。」と答えた。また会える、皆がそう思っていた。

「誰のお葬式をしているんでしょうね。」義妹がつぶやいた。多くの人が泣いたり挨拶したり、お線香の煙と供花のむせるような香りの中で、まだ時差ぼけだった事と、アドレナリンのスイッチが切れないままの私は、昼も夜も分からず現実味を帯びない夢の、悪夢の中に佇んでいた。これはきっと夢だ、目が覚めたら私はカナダにいて、弟はまだ生きているんだ、そう思いながら何日か逆転した昼夜が明けた。でも夢は覚めなかった。初七日が過ぎ、弟の携帯電話を解約し、じわじわと現実を受け入れなければならない。急遽カナダを出国してきた私には、大きな課題があった。それは、PRカードという、移民に与えられる入国許可証だ。私のPRカードは期限切れだったので、更新の申請中だったのだが、そのさなかにこの不幸が起こった。日本国内でこのカードの更新申請は受け付けておらず、代行業者を通して、フィリピンのマニラにあるカナダ大使館に臨時入国滞在許可証を出してもらうことになった。その際、あらゆる書類が必要だったのだが、その一つが弟の死亡証明書だった。これ程決定的に、現実を叩きつけるものがあるだろうか。結局私は年の暮れと正月を日本で過ごし、2か月の日本滞在の後、カナダへ入国が許可され、夫と子供たちのもとへ戻った。私がしっかりしていなければ、両親と義妹家族を支えなければと張りつめていた気持ちが、空港へ迎えに来た子供達に会った時に弾けた。私はその時初めて、号泣した。

子供達は、優しかった叔父の死を悼みながら、いつ帰ってこれるか分からない私を待ちわびていた。そんな子供達を、カナダの祖父母や友人達が頻繁に食事に誘ってくれたり差し入れをしてくれたりしていた。日本人の友人家族は、息子のお誕生日パーティーまでしてくれていた。悲しみと不安の中で私達を救ってくれたのは、周囲の人々の善意と温かい思いやりだった。

突然弟を亡くした悲しみと、遠く離れた故郷の両親や義妹への責任感で、カナダへ戻ってからの私は情緒不安定になり、涙が止まらなくなるかと思えば、ハリネズミのようにイライラすることもあった。夫も職場でのストレスを抱えていた。そんな中、娘は中学を卒業し、秋から高校生になった。

8月下旬に、腰の激痛を訴える夫を救急病棟へ連れていった時、何とかつま先立ちで震える足を引きずって歩く夫は、手を差し出して私につかまった。「随分長いこと手をつないで歩くことなんてなかったのに、皮肉だなあ。こんな状態になって僕たちはやっと手をつないでる。」夫は苦笑しながらそう言った。

To be continued.....


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