豚バラと卵の甘辛煮とリキまない人々
二流とはリキんで登りつめた人。
一流とはリキみを抜いても尚、トップにいる人。
私が尊敬するタモリさん、樹木希林さん、栗原はるみさんは皆さんジャンルは違えど、その世界の一流の人たちだ。
共通しているのは、リキんでいない、むしろ脱力系自然型ピーポーだ。
人は皆、何かを手に入れようと必死でリキむ。
それはとても自然で健全な現象だ。なぜなら、ヨガでも最後のシャバーサナという屍のポーズに持っていくまでに、沢山のポーズを決めて断続的にリキみを作り出した後に、完全な脱力に導くからだ。
リキみを知らずして、脱力はあり得ないのだ。
以前教えていたフラダンスでも、やはり初心者は皆腰を振ろうと懸命に力むが、優雅な腰の動きは力を抜いた時に初めて成功する。
書道の達人も、最後に達人になるかどうかはリキみを抜けるかどうかだと話していた。
ただそれが、人生となると、なかなか難しい。
どこでどうリキみを抜いていいのかわからないのだ。
23歳の新入社員が、やたらリラックスしていても「おいおい、少しはリキんだらどうだ。」と言いたくなるし、45歳のおばさんがアムラーをまだ現役でいっていたら「おーおー。そろそろリキむのやめようかね?」となる。
成人式のように、43歳で「リキみ終わり式」みたいなものがあればいいのだが、それがない今の日本で人はいつ、リキみを終えたらいいのか。
人それぞれタイミングが違うのは同世代の友人たちを見てみるとよくわかる。とっくにリキみが抜けて、無理をしないライフスタイルになっている友人もいれば、まだまだ昔以上に頑張ろうとしている友人もいるだろう。
それは何となく豚バラを煮込んでいく作業と似ているような気がした。
味を染み込ませる前に、豚バラを一度グツグツとお湯で沸かして無駄な脂を落としていくのだ。良質な脂はエネルギーに満ちて、若者の「やったるで感」と似ている。
俺はあんなことも出来る!私はこんなにも優れている!
そんな思いが脂だとしたら、それを世間の荒波という名の熱湯はあざ笑うかのようにグツグツと消し去っていく。
『お前なんぞ、なんぼのもんじゃーい!』
そうしていつの間にか無駄な脂がいい塩梅に落ちてから、酒・みりん・砂糖・醤油という人生の味がそこに染み込んでいくのだ。逆に言えば、その荒波にもまれなければ、なかなか味が染み込んでいく隙間も出来ないだろう。
タモリさんも今でこそ、神の領域のような穏やかさをたたえているけれども、昔は美尻をさらして
かなりハードな体を張ったギャグをやっていた。
つまり本当の穏やかさは、リキみきった後にやってくるのだ。
だから若いうちは大いにリキむことこそ、大人になった時に脱力の方法がわかって、自然とそこにいい味が染み込んでくる、という方程式だ。
今夜の豚バラと玉子の甘辛煮のように、私もまだしぶとく残る芯のリキみを抜いて、いつかはがっつりと味が染み込んだ大人になりたい。
そう思いながら頬張った煮卵は、まだまだ先輩の味がした。
文字と料理で誰かの今日をほっこりさせます♪