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心理的安全性について思うこと

OLERABIZ 伊藤です。

最近、ヒアリングなどの基本スキルとして、傾聴や心理的安全性を学ぶ機会が増えました。そこで、思うことでも書いていきます。


はじめに

人間の心が健全である状態を積極的に作り出し、前向きに思考を巡らせたり、楽しい気持ちで話を聞きだすための効率的なツールとして、傾聴や心理的安全性の形成というものがあります。
確かに、心地よい環境で話しやすい雰囲気が生む、その状態が持つ効果は疑いようがないものだと思います。

この心地よい状態の効果は広く認められ、多くの人が提供できる側になるべく学んでいるように感じています。そして、今後もさらに広がるものと推測できます。

妄想

今は、心理的安全性が提供できるということは、まだ一つの差別化要素となっているかもしれません。しかしながら、多く人が心理的安全性を提供できることが当たり前になった場合、何が起こるのかを考えてみます。

当たり前になった心理的安全性は、提供することが「コスト」とみなされるかもしれない、そんな予測をしてみます。
その未来では、心理的安全性を必要としない組織や個人に優位性が生まれます。なぜなら、人々が、心理的安全性のぬるま湯に浸かりきっている状態で、心理的安全性を必要としないその省コスト性に差別化された価値が生まれます。

そんな未来に備えて、自らの精神的強靭性を鍛えておくのは、先行投資かもしれない・・・そんな妄想でした。

とりとめのない雑記

伊藤が、心理的安全性が高い状態を体験し、その居心地の良さを感じているときに、「あれ、これ居心地よくさせられてるだけだ。相手が気を使ってくれていて、それは相手がコストを払って創り出してくれているまやかしであり、相手次第でなくなってしまうもの。これを当たり前と思うことは危険なことな気がする」ってひねくれて思っちゃったんです。
相手がコストを払ってまで作ってくれている心理的安全性でしかなく、逆に言えば、自らにコストを払ってもらえるだけの価値がなくなったら提供されることがなくなる心理的安全性。そんなものを当たり前だと思うのは傲慢の極みなんだろうと思ってしまったわけです。

そもそも、傾聴というプロセスが忌み嫌う「批判」というコミュニケーション。罵詈雑言や誹謗中傷と一緒に、自らの誤った考えをただしてくれる内容もすべて包括している傾向を感じています。
傾聴してもらえている状態は、自らが気づいていない正しい情報に触れる機会を減らすか、自らがその情報を得るために、相手にコストをかけさせているともいえる。そのコストを払ってまで正しいことを教えてくれる人は多いのだろうか・・・

多くの人がぬるま湯に浸かっている状態は、集団として強いのだろうか・・・提供する側とされる側で格差は広がるのかも・・・

まとめ

というわけで、心理保護が強い傾向がある今、逆に精神的強靭性をもってみたらいいのかもしれない、という、伊藤のたわごとでした笑


さて、次回は、新展開があるかもしれません!お楽しみに!!!
以上、伊藤でしたっ




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