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少子化対策に思う(2)        会社員と時間、そして生産性

前回の投稿で、経済支援を軸とする少子化対策は的外れではないか? 論点は時間ではないのか、と指摘してからずいぶんと時間が経ってしまったが、続きを考察してみようと思う。

そもそも、日本の会社員には何故こんなにも時間がないのだろうか?
答えは簡単で、あらかたの日本企業が社員から買っているものが「時間」だからである。時間を買っている訳だから、リソースマネジメントの基本は「遊ばせるな」になり、知的生産者と物的生産者の差異には目もくれず、生産性の改善とは即ち稼働率の改善であるとの考えが正当化される。

日本では、ホワイトカラーを総合職と呼ぶ。総合職とはよく云ったもので、要するに「何でも屋」である。建前上の役割・ミッションはあったとしても、手が空けば新たな仕事を与え、休む暇なく何かをさせる。そうしたマネージメントを続けた結果、手を動かしている事が重要であって成果は二の次と云う、およそ営利を目的とした組織とは思えない価値観が生まれる。
働く側も同様。時間を買ってくれる訳だから、より多くの時間を仕事に費やせば報酬が増える事になる。一方で、与えられたミッションを早々にこなして「余裕」が生まれれば、その報酬として「新たな責務」が与えられる事を知ると、むしろ、当初のミッションをできるだけ時間を掛けてやった方が「お得」と云う、これもまた、営利組織の構成員にあるまじき価値観が従業員側にも生まれる訳である。日本企業の生産性が低い理由は、この「知的生産者についても、時間に対して報酬を支払う」と云う制度設計に概ね集約できると云えるだろう。

生産性と云えば、リソース効率とフロー効率と云うふたつの観点がある。リソース効率とは前述の稼働率の事で、フロー効率は価値を提供するまでのリードタイムの事だが、良く知られているように、リソース効率を高めすぎるとフロー効率は低下する。つまり、日本流のリソースマネジメント、即ち稼働率の極大化を進めれば進めるほど、価値を提供するまでのリードタイムは長くなる訳である。
「失われた30年」は、その起点をバブル崩壊とその後の不良債権処理に置いて語られる事がほとんどだが、日経平均が38,915円を記録した1989年は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わった年でもある。冷戦終結と同時に始まったのが大競争時代。資本主義市場に東欧圏が参入し、時を同じくしてインターネットが急速に普及。市場が求めるスピードに対応する為に、特にハイテク産業において垂直統合型から水平統合型への変革が進んだ訳だが、「失われた30年」とは正に、このスピード競争に日本企業がことごとく敗れ去った30年と云えるだろう。
恐らく、バブルが崩壊しなくても、「失われた30年」は到来したし、30年を無為に過ごした私たちは、今も負け続けているのである。何故か?

大方の日本企業が、「稼働率至上主義」から脱却できずにいるからである。戦略が間違っているのだから、当然の結果として競争には負ける。負けると更にリソース効率を追求し、行きついたところは労働時間に対する対価の支払いの拒否、つまり「サービス残業」の横行である。
サービス残業が横行する背景には、「知的生産の出来高は労働時間に比例する」と云う、知的生産と物的生産との差異を無視した、誤った考え方がある訳だが、それを正す事ができないので、業績が悪化すれば更なる稼働率の極大化が図られ、それが故にフロー効率が更に悪化して競争に負ける、と云う悪循環を繰り返しているのが、この国の実態である。

このような、「持てる時間のすべてを労働に差し出せ」と云わんばかりの国で、果たして子育てができるのだろうか?

次回に続く…

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