霧雨の唄 肆

 篠突く雨が小雨となり,霧になる。
 やがて雨粒が失せるとき,それは何を意味するか──

(ケイの手,冷たい……)
 真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。先程まで背に当てられていた掌は,じんわりと染みるように温かく,ケイの「体温が下がることがあまり無い」という言葉を純粋に信じていた。
 今アリサの手に触れている指先は,冷えきった肌にさえ突き刺さるように冷たく,混乱しきったアリサの頭を急激に冷ました。一粒の雨水がもたらす波紋のように,緩やかにアリサの胸に冷静さが広がる。冷たい感触を手繰るようにケイを見上げたアリサは,ひっと息を呑んだ。
 ケイの切れ長の瞳が,くすんだ赤色に染まっている。虹彩が失せ,細く縦長に変化した黒目が中心に伸び,真っ直ぐに目の前の男を見つめていた。誰から見ようとも,人間の目ではない。
「ケイ……?」
「……」
 アリサの小さな声に,ケイが顔を向けた。見下ろされた瞬間,アリサの全身が総毛立つ。光沢のない無機質な赤い目。細く貫くような黒い瞳は,不気味なほどに動かない。
 ケイは,ヒトならざるものになっていた。
 硬直したアリサを見ていたケイはやや目を細めたが,再び男を見上げる。あまりにも唐突な事態に,男はもはや声も出ないようだ。
 ケイの唇が動いた。
「僕の前で,よくも堂々と法螺を吹いてくれたね」
 馴染んだ少年の声。だが,脳天から直接押し付けられるような,重々しい“圧”があった。加えて,アリサでさえ身震いするような鋭利な殺意がこもっている。
「お……お前……」
 男は口角を震わせ,数歩後ずさった。肌を刺すような殺意が,指先からアリサへと伝わる。霧雨が刃物に化した感覚だった。
「全て話せ。8年前,何故彼女を殺したのか。そして今ここで,僕とこの娘に懺悔しろ」
 冷たい声に満ちる圧倒的な力は,もはや人間のものではない。紛れもなく神──龍神が持つそれだった。
「ケイ,あなたは──」
「アリサ。しぃっ」
 問い掛けようとするアリサを,抑えたケイの声が遮る。
「まずは彼の話を聞くんだ。君にも無関係ではない」
「……」
 アリサが黙りこんだ瞬間,距離を取った男がふっと息を吐き出した。
「ふふふふ……ハハハハハ!!」
 腹を抱え,けたたましく笑う。思わず顔をしかめたアリサに,男は勢いよく指を突き出した。
「嬢ちゃんよぉ! おめぇは大したヤツだぜ全く! 神サマにお守りしてもらうなんざ,この世でおめぇ一人だけだろうよ! どんな縁があって龍神とお友だちになってんだ!?」
「な,何を……」
「面白ぇ! この際だから聞かせてやるよ。オレの昔話をよ!」
 男は歯を剥いて嗤いながらずんずん近付いたかと思うと,アリサへ厳つい顔を寄せた。
「オレはなぁ,8年前に餓鬼を一人殺したんだよ。丁度おめぇくらいのちっこい小娘さ。目がそっくりな,更に小せぇ餓鬼も連れてたっけなぁ」
「……!」
 突然,アリサの耳に声が蘇る。

 ──アリサ。先にお家へ帰ってて。走って帰るんだよ。
 ──おねえちゃんは?
 ──この人たちとお話ししたらすぐ帰るよ。この人たち,あたしのお友だちなの。
 ──うん。わかった。

 水を蹴飛ばす音。何故走らなければいけなかったのか。僅か2歳の自分が理由を考えるはずは無かった。ただ純粋に,おねえちゃんはお友だちと話があるんだ,きっとすぐに帰ってくる。そう思っていた。
 姉は帰ってこなかった。一人膝を抱えるアリサの前に現れたのは,姉と同年代ほどの美しい少年だった。

 ──ごめん。

 突然現れた見知らぬ少年は,開口一番,そう言ったのだ。
(なんで“ごめん”なのか,考えたこともなかった。忘れていた……)
 アリサの心中も知らず,男は更に息巻く。
「この村に移り住んでから,どいつが『龍の子』か長ーく見極め続けてきたが,まさかあんな年端もいかねぇ小娘がそれだったとはなぁ。分かったときは興奮したぜ」
「……」
「オレはずーっと龍になりたかった。本物になれなくてもいい。龍の『血』が欲しかったんだ。だからオレは,その龍の子を殺した。殺すだけじゃねぇ。そのあとどうしたと思う?」
 問われ,身の毛もよだつ想像が膨らむと同時に,男はまさしく同じ答えを高らかに言った。
「喰ったんだよぉ! その餓鬼の血肉を啜り,貪ったぜ! 仲間も数人いたんだが,全員ビビって逃げ出しちまってなぁ。有り難く独り占めしたのよ! 龍の血を舐め取ったときのあの感覚,堪んなかったぜぇ……」
 恍惚とした目でアリサから顔を離した男の口から涎が滴る。
 アリサの胸に,強い吐き気と嫌悪感が激しく渦巻いた。
「おまえが……わたしの……」
「さあ! どうだよ神サマ!」
 男は涎を振り撒きながらケイに向けて叫んだ。
「お前が神だろうが何だろうが知ったことか! 8年前,オレは確かに龍の血を体に受けた。それ以来誰にもオレの血を渡したことは無ぇ。オレこそが龍の子だろうが! それなのに──」
 突然男の声音に悲痛が帯びる。
「何故雨が途絶えた!? オレは龍の血を受けたんだ! 龍になったんだ! なのに,故郷に帰ってから8年間,雨が一滴たりとも降りゃしねぇんだ! 土地は干からびて,もう何人も死んだ! みんな移り住んでって,オレの故郷はひび割れた土地でしかなくなっちまったんだ!」
 幼子の悲鳴のように,男は甲高くケイに向かって訴える。
「何度雨乞いしても意味が無ぇ。この池の水を飲んでも意味が無ぇことくらい分かってらぁ! なぁ,何でだよ!? お前龍神なら,何でオレの村に雨が──」
「──龍神は」
 ケイの静かな一声に,男は口を開けたまま固まった。
「どの土地にもいる。僕だけが龍神ではない。人間に血を分けた類は僕だけだが,あなたの村にも別の龍の加護はある。あなたの村で何故水が途絶えたか,分かるか?」
「あ?」
「あなたの蛮行を,故郷の龍が見ていたからに違いない。龍の子は我々龍神の同胞であり,子でもある。龍になりたいという反吐が出る理由で同胞を惨殺した男がいる村など,加護を与えるに値しないと考えるのは至当。哀れな村が消えたのは──」
 細く白い指先が,すっと男へ伸ばされる。
「あなたのせいに他ならない」
「……てめぇ!!」
 男が歯を剥き出し,ケイに飛びかかった。瞬間,ケイの袖を掴んでいたアリサの手が振り払われ,アリサは思わず尻餅をついた。腰を擦りながら顔を上げたアリサは驚愕する。
 ケイの右手が,銀色の厚い皮膚と鱗に覆われていた。状況も忘れて見惚れるほど美しい白銀の手は,長く太い5本の爪を携え,その一本が男の肩を貫いていた。
 血飛沫と共に男の絶叫が森に響き渡る。肩を押さえてのたうち回る男を見下ろしたケイの右手が,みるみるうちに白いヒトの手へと変わり,アリサはもはや驚きも越して呆然とケイと男を見比べた。
 服を赤く濡らしたケイが,龍の瞳をアリサへ向ける。恐怖はなく,代わりに懐かしい記憶が蘇った。

 ──おねえちゃん,雨!
 ──また? アリサは本当に雨が好きだね。
 ──雨! はやく!
 ──はいはい。ほら,雨降れ降れ!

 ──おねえちゃん,雨,弱いよ……。
 ──ごめんね。毎日強い雨はダメなんだ。子守り唄唄ったげるから,ほら,寝よう。
 ──うん!

 自分でも不思議なほど,穏やかな気分だった。目の前で大男が血を噴き出して悶えているというのに,心底から落ち着いている自分が可笑しく,アリサは小さく笑う。
 ケイが目を真っ直ぐに見つめながら,言った。
「アリサ。遂にこの日が来たんだ。この男が,君の姉を殺した奴だよ」
「……」
「僕が何を言いたいか,分かるね?」
 ケイは,神が言うには残酷すぎる言葉を淡々と述べた。

「殺していいよ」

 男が高く悲鳴を上げた。抉れた肩を必死に庇い,ケイとアリサから距離を取る。しかし失血と痛みで意識が不安定なのか,逃げようとするなり膝から崩れ落ちた。
 アリサはうつ向き,無表情のまま立ち上がると,緩慢に男へ歩み寄った。男は情けない声を漏らしながら,尻でずるずると後退する。
 ふとアリサが腰を落とす。途端,目にも留まらぬ速さで男へ寄ったかと思うと,血に染まる肩を爪先で踏み倒した。裂くような悲鳴を上げる男の逆側の手を踏み,その胸へと座る。見下ろした男の顔は涙と涎で汚れ,苦痛と恐怖で醜く歪んでいた。
(いい気味だ)
 その思いと共に口角が上がる。少女が見せたその表情は,男にとってどれ程恐ろしかったか知れない。
「おまえは,わたしの姉──龍の子を殺した。その罪は絶対に償ってもらう」
 低く唸るように,アリサは言う。その小さな手が拳を握り,振り上げられた。

「せいぜい生きて地獄を味わえ……!!」

 アリサの拳が,宙を切って男の鼻骨を打ち抜く。骨が割れる鈍い音と共に男の目が白く剥かれたかと思うと,断末魔の叫びもなく,そのまま動かなくなった。

★続く