魔がヒもの 弐

「スゲー速ぇ」
 新幹線は初めて乗った。揺れは全く感じないが,窓の外は驚くほど高速で流れていく。グレーの高層ビル群から青々とした景色に変わりつつあることはわかったが,眼前を直視しているとフラッシュを喰らったかのように酔ってきた。
 まばたきを繰り返しながら青天をぼんやり眺めていると,眠気と共に昨夜の夢が脳を過った。耳にしわがれ声が響いた気がして,思わず震えが走る。
「ん? どうしたの秀二」
 隣に腰かけた母が目ざとく気付き,聞いてくる。残念ながら親父は仕事で欠席だ。
 俺は手の甲で額を拭った。やはり汗が滲んでいる。悪夢に本気でビビってまだ引きずるなんて,ガキか俺は。
「なぁ母さん。オウマガドキって何だっけ?」
 何だっけとは言いながら,言葉の意味を誰かに聞いたことも調べたこともない。初めて聞く単語だった。
 母は突拍子もない質問に目を丸くしたが,すぐに答えてくれた。
「逢魔が時? 夕方の薄暗くなる時間帯のことだよ。魔に逢う時って書いて逢魔が時」
「魔に逢う? 魔物出んの?」
「ホントに出やしないよ。言い伝えさ。周囲が段々見えなくなってきて危ないからさっさと帰りなって意味らしいけどね」
 軽い調子で言う母は,ふと心配そうに目を細める。
「秀二,汗かいてるね。冷房効いてるはずなのに。酔っちまったか」
「あ,いや違う。ちょっとは酔ったけど大丈夫だよ」
「ふうん……。でも何で急に逢魔が時?」
「……昨日ヘンな夢見てさ。そこで老婆みたいな声が嫌~に逢魔が時が云々って繰り返してて。久々にビビったなぁ」
「……!」
 母が息を呑んだ気がした。隣を見ると,普段は飄々と構えた母の眉間に小さなシワが掘られていた。
「母さん?」
「あんた,意外とそういう夢見るんだね。正夢ってほどでもないけどさ」
「はい?」
 母はくるりと俺を見ると,肩をすくめた。
「ま。あとで分かるよ。着いたらばあちゃんに詳しく聞いてみな」
 そういうと,母はシートに背を預けて目を閉じた。気になる言葉だったが,俺も習ってぐったり力を抜くと,自然と眠気に飲み込まれた。

 降り立った駅は,都会の広々として賑やかなものとはあまりにも違っていた。走り去った新幹線の後に残された景色は,色あせた瓦屋根をバックにそびえ立つ深い緑の山々。呆然と見渡せば,梅雨の恵みを存分に受けた鮮やかな田園が,強い陽射しを眩しく照り返している。白い長袖の服に青いエプロンを着た農家の人もいるようだ。あれが「つなぎ」か? いや違うか。
 背後で母の吹き出す声。
「どう? 田舎だよ」
 笑いながら俺の隣により,学友のように背をバンバン叩いた。そこらの男子より背骨に響く。
「そこまで嬉しそうな顔するなんて。ようやく来て良かったって思ったな」
 自分でも分かるくらいだ。今の俺は褒美を前にした犬さながら,目を丸く輝かせていることだろう。胸は本格的に高鳴り,呼吸ひとつすら興奮を覚える。空気って本当に味がするんだな。
 目まぐるしく思いを馳せながら,俺と母は改札を抜けて駅を出た。所々花が咲いた狭い道路が左右に続き,その脇をレトロな一軒家と田んぼが挟んでいる。道は想像以上に長く,村──なのだろうか──を囲うように構えた山脈へと繋がっているかのように思えた。一瞥したところ,車らしきものは見当たらない。
「ばあちゃん家ってどこらへんなの? この道歩いてけば着く感じ?」
「いや。ちょっと歩いた所にバス停あるから,5分くらい乗ったところにあるよ。ここから右だね」
 母が指差す方へ首を向けると,たしかにバス停を示す看板が目に入った。ベンチが一つあるだけの質素極まりないバス停で,風雨に擦られた赤色はすっかり褪せている。夏空の元で見るとどこか物寂しい。
「昼間でも2時間に1本とかだから,絶対逃せないよ」
「マジ? 待たなきゃダメな感じ?」
「いや,さすがに調べてきてるよ。10分以内には来るっしょ」
 母の言う通り,10分も待つことなく砂塵を巻き上げてバスが到着した。乗客は小柄な老人一人だけで,都会の満席バスとはまるで違う。乗客3人を乗せた大型バスは,低い唸りを上げながら瑞々しい田園の中を走り出した。

 バスを降り,人2人が限界の小道を通っていくと,木陰に隠れた小さな橋があった。橋の下を涼やかな小川のせせらぎが流れていく。橋の先には更に続く田んぼの景色。その傍らに伸びた低い石垣の一部に,不安げな段差が見えた。
「あそこだよ」
 母がその石段を指差す。石垣の上にはやはり瓦屋根の古っぽい一軒家が建っていた。
 田舎のおばあちゃん家。なるほどな。俺は無意識に歩を速めながらその石段へと向かった。

 ガラス張りの引き戸を叩いて出迎えたのは,俺の胸元までしか背のない小柄な老女だった。不思議そうに俺を見上げ,背後の母へと目を移し,途端にその顔が輝く。
「靖子! 待ってたよ。ということは,あんたは──」
「初めましてばあちゃん。孫の秀二です」
 気持ち恭しく俺が名乗ると,祖母は小さな両手で俺の右手を掴んだ。冷たくて,筋張っている。
 ──懐かしい。
「会えて嬉しい。あんたまで来てくれるとは思ってもいなかったよ。さぁ,2人ともお上がりなさい」
 引き戸を開け放ち,いそいそとスリッパを用意する祖母。その背中を見てチラリと母を振り返ると,その顔は何とも複雑な表情を浮かべていた。
「……?」
 気にはなるが,玄関で立ち往生はできない。俺はスリッパを履き,案内された居間の座布団に座った。
「大したものじゃないが,食べてくれ」
 祖母はそう言って,三角錐に切られたスイカとカルピスを出してくれた。俺は土下座寸前の勢いで礼をいい,さっそく1つにかじりつく。暑い夏に涼しい部屋で食べるスイカ。これ以上の至福はないだろう。
 左頬に乾いた風を感じる。目を向けると,開放された障子の向こうに木と砂だけの質素な庭が広がっていた。申し訳程度の白い花がチラチラと咲いているだけだ。夏に咲く野花だろうか。
「変わらないな,1つも」
 隣に腰かけた母がため息混じりに言う。目の前に並んだスイカには手を出さず,殺風景な居間を見渡しながら,何か探しているようだ。
「ほらあれ。今は亡くなっちゃったけど,じいちゃんだよ」
 指の先を見てみると,天井と壁の間に白黒の古い顔写真が立て掛けられていた。面長でハンサムな男性がまっすぐこちらを見ている。
「へえ。かっこいいね」
「でしょ?」
 心のこもらない声で返し,ようやくスイカを1つ食べ始めた頃,祖母がてくてくとやって来て正面に座った。
「15年ぶりくらいか? 連絡をもらえて嬉しかった。元気だったかい?」
「まあね」
 母の声音はやはり素っ気ない。よほど自分の両親にはいい思い出が無いのだろう。
 祖母は気にした様子もなく,今度は俺へ目を移した。
「名乗っていなかったね。私は佐重子だ。主人は亡くなってしまったから,せめて顔だけでも見てやっておくれ」
 そういい,先ほど確認した顔写真を振り返った。
「ここは気候に恵まれていてね。夏でも猛暑に苦しむことはない。どれほど滞在するかはわからないが,ゆっくりしていきなさい」
「ありがとう,ばあちゃん」
「……」



 どこか気まずい手短な挨拶を済ませると,祖母は立ち去り,母は持ち帰れそうなものを見てくると言って2階へ行ったため,1人になった俺は日に照らされた縁側でぼんやり風に当たっていた。鼻につく爽やかな緑の匂いに,湿気のない風。人の熱気に晒された都会の夏とは大違いだ。無意識に目を閉じて浮いた足を揺らしていると,隣に人の気配を感じた。祖母の佐重子がおにぎりを乗せた盆を片手に腰かけるところだった。
「どうだい,ここの空気は。中々いいだろう」
 そう言ってにっこりとこちらを見る。全体的に柔和な雰囲気の老女だが,皺の寄った目は猫のように鋭い。そこだけ母によく似ている。
「もう最高だよ。都会の空気と全っ然違うね」
「そりゃ良かった」
「ばあちゃんはこの家に1人で住んでんの?」
 祖母は小さな口でおにぎりをかじり,頷いた。
「靖子たちが移り住んでからも,家だけは変わっていない。主人が亡くなってからは余計広く感じるものだ。もう慣れたけどね」
 外から見ても家族住まいにふさわしい大きさの家だ。こんな小柄な老人1人で住むには余りにも広すぎるだろう。真っ暗な寒い部屋に1人で眠る祖母の姿を思い,やや胸が痛んだ。
「寂しくないの?」
「寂しくはないさ。人が少ない分,地域の交流は深いから。健康の為にもよく外へ出てるんだよ」
「そっか」
 本心なのか強がりか。変化の乏しい表情からはうまく掴み取れない。母と同じで飄々としている。
 少しの沈黙の後,祖母は話題を変えた。
「ねえ秀二。ここらへんのことは何も覚えてはいないのかい?」
「うん。俺がほんとチビの時に移ったって聞いたから」
「そうか──じゃあ,山を少し登ったところにある神社のことも?」
「神社?」
 突如として出た単語に,俺は咄嗟に聞き返す。田舎の山に潜む神社。心踊る匂いがする。
「ああ。祐又(ゆまた)神社と言ってね。木々に隠れた鳥居と本殿だけの,不思議な雰囲気のあるお社さ。少し足元に注意しなきゃならないが,あんたの足ならば余裕で行けるだろう」
「へえ……」
 祐又神社。記憶にはないが,その外観を想像するとファンタジー的な興奮を覚える。これは是非とも見に行かなければ。
「それはそうと,もうひとつ話をしてあげようか」
「?」
「この村には少々古い言い伝えがあってね。信じるかどうかは人次第だが,あんたも知っておくといい。靖子はこの伝承が嫌いだから,あの子がいない内にね」
 何故か,背筋にゾクリと嫌な痛みが走った。
 やっぱいい,と断ろうとした時には,祖母はその言葉を言っていた。
「──逢魔が時,“目を持ったもの”の視線に立ってはいけないよ」

「──連れてかれちゃうからね」

★続く