ダイヤモンドは語る 肆

 私は屈んで,ハヤカワ シュンに笑顔を向けた。
「こんにちは,シュンくん」
 本人もまさか会えるとは思っていなかったのだろう。目を黒々と見開き,ただ頷くだけだった。
「そこのスーパーに車で来てるのよね?」
「うん」
「少し,お姉ちゃんとお話しできる?」
「……うん」
 口角を足らし,深くうつ向く。賢い子供だ。これから何の話が始まるのか理解しているのだろう。ここへやって来たこと自体,彼がどんな思いを抱えているのか物語っている。
「5月に,車に轢かれそうになった?」
 単刀直入に聞いた。ハヤカワ シュンは迷いもなく頷いた。
「そのとき,知らない若いお兄ちゃんに助けられたのよね?」
「うん」
 籠った声を漏らし,ようやく私をまっすぐ見つめた。
「ミニカー落としちゃって。友だちのいえに行こうとおもってて。走ってとりに行こうとしたら,角っこから車がきたの。そしたら,向こうから来てたお兄ちゃんにドンッて」
 前のめりに転倒し,起き上がるなり目に入ったのは,血を流して倒れ伏す宗一だった。彼の傍らには黒い小箱──あの箱が落ちていたらしい。
「お兄ちゃん,ぼくにおいでって。近くまで行ったら,やまさきスーパーの近くにあるキリンの公園に行ってくれないって」
 山崎スーパー。T字路の左奥に建つあのスーパーの名前だ。やはりそうか。
「で,さおりっていう美人さんにこれわたしてって。あいしてる,うけとってってちゃんと言うんだよって」
 あいしてる。うけとって。
 この結婚指輪は,宗一から私への指輪。ポケットの上から箱を触り,思う。その事実が滲むように頭から広がり,唐突に涙が溢れた。それを見たハヤカワ シュンの目が戸惑ったように揺らぎ,彼も大粒の涙をこぼす。それでも声を震わせながら必死に語ってくれた。
「お兄ちゃん,あいしてるって言いたかったらしくて。だからぼく,お姉ちゃんがあいされてるって忘れないように,紙に書いたの」
 あのメモ用紙だ。細く幼稚な「あいしてる」の文字。
 何て賢い子なのだろう。言葉を実体のない儚いものとして認識し,形に残すとは。私はハヤカワ シュンの頭に手を伸ばし,柔らかな黒髪をそっと撫でた。
「シュンくん。君はいい子ね。お姉ちゃん凄く嬉しい」
「うれしい? でも,泣いてる」
「ううん。違うの。嬉しい。嬉しいのよ……」
 感情を抑え込めない。堰を切ったように涙が溢れて止まらない。これではハヤカワ シュンが勘違いしてしまう。私は努めて凛とした声で彼に尋ねた。
「お兄ちゃんに助けられて,パパとママに山崎スーパーに行こうって言ったの?」
 彼は頷いた。
「ママもパパもお買いもの行きたかったって。だから,ぼくもいっしょに来て,バレないように公園に来たの。そしたら,お姉ちゃんがいたの」
「車に轢かれそうになったってことは?」
「こわくて,言えなかった。おこられるかもって」
 当然だ。自分が助けられたせいで人が一人死んだなど,大人でもそう簡単に言えたことではない。
「今日は?」
「今日もお買いもの。ぼく,やまさきスーパーに来たらかならずこの公園に来てた。お姉ちゃんに会えるかもって」
「やっと,会えたわね」
「うん……」
 ハヤカワ シュンは袖で涙を拭い,何度も頷いた。
 私は最後の質問をする。
「ねえ。“うらを見て”ってどういう意味なのかな?」
「……わからない」
 ハヤカワ シュンは困ったように首を振った。
「お兄ちゃんがさいごに言ったの。なんのことなのかわからなかったし,声も小さかったから,もしかしたらちがうのかも」
「そう……」
 すると,ハヤカワ シュンが突然頭を下げた。咄嗟に,手術室から出てきたあの医師と重なった。
「ごめんなさい」
 絞り出すように言う。肩が大きく震え,アスファルトの地面に次々と滴が落ちた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ぼくのせいで,お兄ちゃん……。お姉ちゃんのたいせつな人……。ごめんなさい……」
 私は何も言わず,ハヤカワ シュンの頬を手で包み,そっと持ち上げた。早くも真っ赤に腫れた大きな目に,強い悔恨の色が見てとれる。本当に,どこまでも聡明で,真っ直ぐな子だ。
 私は彼をそっと抱き締めた。
「謝らないで。君のせいじゃないし,宗一はそんなこと望んでないわ。自分が助けた子供がそんな顔してちゃ,彼は悲しむ。そういう優しい人なの」
「そういち……」
「そう。宗一。君の恩人で,私の愛しい人の名前よ──」
 それからはもう我慢ができなかった。ハヤカワ シュンと私は,麗らかな春の陽射しの下で,声を上げて泣いた。

 ハヤカワ シュンをスーパーまで送り届けたとき,彼の両親は車の脇で右往左往していた。近所の公園で迷子になっていたと言って引き渡した際には,やはり深いお辞儀と共に何度も礼を言われ,何故かイチゴを1パック頂いた。ハヤカワ シュンの真っ直ぐさはこの両親を見習っているのだろう。もう彼が親に心配をかけないことを願うばかりだ。
 私はすぐさまキリン公園へと戻り,黒い小箱から指輪を取り出した。
 婚約もまだだと言うのに,まさか結婚指輪を,それも相手に黙って購入するとは。なんて安直な考えだろう。しかも明らかに幼い男児に「愛してると伝えてくれ」だなんて。それを隠すことなくそのままぶつけてきたハヤカワ シュンも,もはやお互い様だ。私は一人笑ってしまった。
 だが,その真っ直ぐさが好きだった。飾り気のない純粋無垢な人柄が,たまらなく魅力的だった。
「“うらを見て”か」
 冷静になれば,その意味がようやく理解できる。指輪の内側に目を凝らし,それを見つけた瞬間,鳥肌が立った。
 内側に嵌め込まれた,小さなダイヤモンド。「変わらぬ愛」「永遠の絆」を石言葉に持つ宝石。
 結婚指輪の内側には,裏石またはシークレットストーンと呼ばれる宝石を嵌めることができる。お守りとして,またはパートナーだけと共有する秘密として,その目的は様々だ。サファイアやペリドットなどの華やかな石も好まれるが,宗一は敢えてダイヤモンドを選んだのだろう。一貫してシンプルを好む,私の嗜好に沿って。
 宗一がダイヤモンドの持つ意味を知っていたのかは分からない。プロポーズもまだのうちに結婚指輪を買うような人ならば,恐らく知らずに選んだのかもしれない。それでも,このダイヤモンドは私の胸を強く打った。「愛してる」という宗一の声が,指輪を通じて体に響くような気がした。
 私は指輪を握りしめ,澄んだ青空を見上げた。
(ごめんね。宗一)
 目を閉じ,心の中で愛しい恋人へ謝罪する。
 ──変わらぬ愛は守れそうにない。人は誰かを愛し,愛され,自分の欠片を残して散っていく。私はいずれ,宗一ではない誰かと結ばれ,愛し合い,子を産み,老いて,ようやく宗一のもとへと昇るのだ。
(でも,あなたなら許してくれるよね)
 思えば宗一はそういう人間だった。
 一度,宗一の了解を得た上で,男の同期と酒を飲んだことがある。そのとき私は無様にも記憶を失くすほど酔いつぶれ,深く眠ってしまった。目が覚めて,家まで運んでくれた同期と偶然買い物に出ていた宗一が鉢合わせしたと聞いたときは焦ったが,その後,なぜか二人は飲み友達になっていた。同期曰く「鉢合わせた瞬間から人懐こく,すぐに連絡先を交換した」とのことだった。そういったフットワークの軽い人だ。
 きっと,私と新しい相手が天へ昇るときが来たら,持ち前の人懐こさで好き放題飲み明かすことだろう。あなたがそういう人だから,私は安心してこの先生きていける。
(ありがとう。宗一)
 愛の形は変わっても,ダイヤモンドのもう一つの言葉──永遠の絆は破れない。私と宗一の絆は,天地が変わっても不滅だ。
(大好きだよ)
 宗一に伝わったのだろうか。風が足元を過り,彼が好きだった勿忘草が,楽しげに頭を揺らしていた。


「ダイヤモンドは語る」了

テーマ:指輪・少年・告白