霧雨の唄 伍

 アリサは一つ息を吐くと,指先を男の首へ当てた。白眼を剥き鼻血を垂れ流しているが,死んではいない。それでも鼻骨は確実に折れたはずだ。
「偉いね」
 背後でケイの穏やかな声。振り返ると,その目は見慣れた優しいものに戻っていた。
「……神様が残酷な煽りをするもんだな」
「悪かったよ。アリサだから言えたんだ。今の君なら,怒りに任せて彼を殺すことはしないだろうと思っていた」
 アリサは男から立ち上がると,ケイの目を鋭く見返した。
「ケイ。確認させて。わたしの姉が,龍の子だったのか?」
「……そうだ」
 ケイは重い表情で頷いた。
「君の姉,サヤカが,十一代目『龍の子』だった──」

 サヤカとアリサの母親は,アリサを産んで間もなく他界した。十代目龍の子であった二人の父親が男手一つで彼女たちを支えたが,アリサが一歳を迎えて間もない頃,買い物に向かう途中物取りに連れ拐われたらしい。当時姉のサヤカは9歳。親戚を知るには充分な年齢で,叔父や叔母を始め数人の知り合いに当たったが,厄介者として門前払いを食らったそうだ。
 ケイの口から語られた全く記憶に無い昔話は,アリサにとっては他人事のように感じられた。
「サヤカは小さな妹と二人で暮らす決心をした。状態のいい花を売り,時には体を売り……。惨めだったろうが,逞しく生きていたよ」
 ──今日はいいパンが買えたよ! ほら,大きい方食べな。
 憔悴した顔で晴れやかに言う姉の声を思い出し,瞼が震えた。 
「もしかしたらこの男は,体を預けたうちの一人だったのかもしれない。8年前ともなれば,年齢的にも無理ではないからね。そこで話してしまったのか,はたまた野心が呼んだ勘なのか,龍の子であることを知られてしまった」
「……ケイ」
 アリサは重々しく疑問を口にする。
「おねえちゃんが殺されたとき,ケイはその場面を見てたのか?」
「……」
 頷くこともなく,ケイは目を伏せた。アリサの胸に小さな火が灯る。
「なんで,その場で止めてくれなかったんだ?」
 意識せず口調が尖る。ケイは悪くないと頭で理解してはいるが,沸き上がった感情が口を突いて出た。
「あなたがそこでコイツを止めていれば……殺していれば! おねえちゃんは死なずに済んだかもしれないのに! 喰わ,喰われる,なんて──」
 吐き出した単語があまりにもおぞましく,言葉が詰まる。激しい憎悪に押されて涙が溢れた。
「そんな目に会わずに済んだかもしれないのに……! どうしてこいつを止めなかった!? あなたは自分の子を見捨てたんだ!!」
 叫んだ瞬間,腹から後悔がせり上がる。もはや正気ではいられなかった。大粒の涙を流しながら,ごめんなさい。あなたは悪くない。ごめんなさい。わたしがわるい。支離滅裂な言葉が次々と口をついて出た。
 そんなアリサを見下ろし,ケイの目が悲しげに細められる。
「ごめん」
 8年前と同じように,彼は一言,謝った。
「君の言う通りだ。神が殺生を禁じられているとはいえ,僕はサヤカを見捨てたも同然のことをしたと思ってる」
「ケイ……」
「しかし,さっき言ったけど,龍の子の役割は龍神──僕がいない期間の水を管理することだ。僕は割りと頻繁に主たる神の元へ出向く立場だったから,そういう役割が必要だと考えた」
「……だから,龍の子を作った?」
「そうだ」
 ケイは細々と続ける。その様子は,神であることをまるで感じさせない,15歳の少年そのものだった。
「サヤカが彼に襲われたとき,僕は主たる神の元にいた。その時,息も絶え絶えのサヤカの声が聞こえたんだ」

 ──龍神さま。聞こえますか。
 ──あたしはもう駄目です。もう立てない。龍の子の血を絶つことになって,申し訳ないです。
 ──こんなあたしの頼みですが,どうかあたしの小さい妹,アリサを,近くで守ってやってほしいです。あの子,雨が好きみたいなので,側にいて,時々大雨を降らせてあげて下さい。
 ──ごめんなさい。本当にごめんなさい……。

「僕が力を使い,人間に化けて地上に降りたときは,既にサヤカの体は無かった──ねえ。この村さ」
 何故体が無かったかは敢えて言わず,ケイは突如話題を変えた。
「どうして雨が止まないか,理由は分かったかい?」
「……?」
「龍神が力を行使している間は雨が降り続ける。道中,僕はそう言ったね」
「あ……」
 目を見開いたアリサにケイは「そう」と頷きかける。
「神の擬人化も,一種の力の行使。地上に降りてからの8年,僕は『人間に化ける』という力を使い続けているんだ。だから,この村は雨が降り続けていた」
 霧を軽く手で払い,場違いにはにかむ。
「村が沈没してはいけないから,日々雨量は調節したけどね。アリサに篠突く雨をねだられる日は正直ヒヤヒヤしていたよ」
 サヤカに雨が好きとは聞いたが,まさかここまでとは思ってもいなかった。生まれた頃からサヤカがもたらす雨と共にあったからか,アリサにとってはそれこそ子守唄のようなものだったからかもしれない。大雨に目を輝かせるアリサの顔を思い出すと,自然と頬が緩んだ。
「……ケイ。あなたはこれからどうするんだ?」
 ケイの思いを知るよしも無く,アリサは問う。
「龍の子がいないこの土地で,ずっと人間を続けるのか? あるじの所へは?」
「……それなんだけどさ」
 不安げに質問を連ねるアリサに,ケイは悲しげな笑みを向けた。
「この8年間,何度もお呼びがかかってて。それを全て無視し続けているんだよ。そろそろ本当に行かないと,存在を消されることもあり得る」
「え……」
「アリサは僕の秘密を知った。それに,復讐を思いとどめる理性もちゃんとある。僕がいなくても生きていけると確信しているけどね」
「……」
「逆に聞くけど,その男はこれからどうするの?」
 血を流して伸びている男を指差し,ケイが尋ねる。
 アリサはフンと鼻を鳴らした。
「山を降りたら邏卒(らそつ)に伝える。怪我してパニクった男に襲われたってね。あとはそいつのこと調べれば色々分かるだろ。島流しにでも何にでもなれってんだ」
 むくれたアリサに,ケイは軽やかな笑い声を上げた。
「ま,理由は色々作れるかな。それにしても,よく思いとどまったね。暗殺という稼ぎを頼りに復讐相手を探してたのに」
「……」
「でも,正解だったよ。殺していいよなんて言ったけど,復讐なんて惨めで馬鹿馬鹿しい。何の意味もなさない不毛で悲しい行為だからね。望んだ時点で愚かしいことさ」
「──ケイ」
 アリサが鋭く言う。その声は,10歳とは思えないほど凛と力強かった。
「確かにそうだけど,『復讐したい』って気持ちまで否定はしないでほしい。神様に伝わるかどうかは分からないけども」
「……」
「大事な人が殺されて『復讐したい』って思うことは,その人にとって最大の心の防御なんだ。いざ復讐しようとしたときにその愚かさに気付くかはその人次第。でも,それまで悲しい気持ちを誤魔化すための『復讐したい』って気持ちは,どうか否定せずに分かってほしい」
 神妙な顔でうつ向いてしまったアリサの頭に,ケイは冷たい手を乗せた。
「そうだね。無神経なことを言った。すまない」
 アリサの首が左右に振られる。それきり二人は黙り込み,男の絶え絶えな浅い呼吸のみが空気を震わせた。ケイの心情を物語ったのか,霧雨が更に密度を増し,遂には目前の龍神の池すら粒子の中に消えた。
 やがてケイが口を開く。
「僕は,主の元へと行く。恐らく二度と人間に戻ることはないだろう」
「……ケイ」
「長く村を離れることになるとは思うが,8年間雨に降られたんだ。雨が止んでも水に困ることはないだろうから,そこは心配することはない」
 アリサを見下ろしたケイの目は,今にも泣き出しそうに細められていた。それでも変わりなく飄々とした調子で,アリサの背を優しく叩く。
「大丈夫。この村の雨は間もなく止むよ。君は寂しいと思うけど,今よりもっと雨が大事なものになる。それもいいものさ」
「……止まないでほしい」
 軽く見上げ,アリサは呟いた。霧雨の更に遠く──曇天に向かって懇願するような声音で言う。
「どうかこのまま,止んでくれるな。だってこの雨が止むって,ケイが人間じゃなくなるって意味だろ? もうわたしたちは二度と会えなくなるんだろ?」
「……」
 アリサの横顔は,かつて見たことのないほど幼かった。迷子の子どもが母親を求めるような,圧倒的な寂しさと孤独感が滲んでいる。
 ケイは地面に膝を付き,アリサを抱き締めた。手は冷たかったはずなのに,包み込む彼の全身はほんのりと熱を帯びている。
 心地よくて,泣きそうだった。
「たしかに,こうやって触れ合うことは二度と無い。でも僕はいずれ必ずこの村に戻ってくる。姿は見えないが,龍神としてこの村を守り続けなきゃいけないから」
 優しい声に堪えきれず,アリサの頬を再び涙が伝った。
「それに,君は今後も一人じゃない。隣の村に,僕の正体を知る18歳の女の子がいるんだ」
「え?」
「実は今日もその子に会いに行っていたんだ。そして,会うたびに頼んでいた。いつかアリサという女の子を預けたいとね。いずれ僕が真実を話す日が来たら,彼女を頼みたいと。妹ができるって,嬉しそうに了承してくれたよ」
 震える小さな肩をそっと掴み,ケイは間近からアリサを見つめた。
「僕はもう行く。君は隣の村へ行ってヨシミという女の子を探すんだ。そして,これからはそのヨシミと一緒に楽しく生きていけ。それから」
 ケイの手に一瞬力がこもった。
「暗殺は,もう二度とやらないこと。今まで殺しを見逃してきた僕は天で罰を受けてくるが,君はここで二度とやらないと誓えば,罰を受けずに済む。分かったね?」
「……うん」
 鼻をすすり上げ,嗚咽を漏らしながらアリサは頷く。寂しい,行かないで,とは一言も言わないが,次々と溢れる涙が彼女の心情を全て語っていた。
 ケイはもう一度その頭に手を乗せ──

「さよなら。アリサ」

 体を,銀色の粒子へと変化させた。
 目を見開いたアリサの周りを,踊るように粒子が巡る。触れられている感触はないのに,先ほど抱き締められたときと同じように,じんわりと温かい。
 その時,粒子から声が響いた。

雨降る庭の 真ん中で
あなたは一人 立っている
一人で何を しているの?
「雨と一緒に いたいのよ」

雨降る庭の 真ん中で
あなたは一人 泣いている
何がそんなに 悲しいの?
「雨が止むのが 嫌なのよ」

雨降る庭の 真ん中で
あなたは一人 笑ってる
今度は何が 可笑しいの?
「雨が強くて 嬉しいの」

雨降る庭の 真ん中に
空から光 落ちてきた
天を見つめた きみは言う
「龍神さまは 気まぐれね」

 体を纏う銀の粒子から伝わるその子守唄は,まるで霧雨が唄っているかのように,アリサを全身から包み込んだ。
「ケイ……!!」
 声を詰まらせながら,アリサは叫ぶ。陽気な姉の歌声が耳に甦り,ケイの声と重なった。ケイと呼び掛けるアリサの声が徐々に掠れ,やがて慟哭へと変わる。

 ──心配ないよ。アリサ。

 泣き叫ぶアリサの耳元で,愛しい少年の声が呟いた。

 ──霧雨が晴れたら森を出て,空を見てごらん。雨上がりも悪くないって,きっと思うから。

 刹那,周囲を漂う白い雨が,瞬く間に薄れた。驚く暇もなく霧雨は晴れ,一筋の光がアリサの足元へと落ちる。
 8年ぶりに,村に光が訪れた。

 山を降りた頃には,馴染み深い村人たちが感嘆の声を上げながら外へと飛び出していた。皆空を見上げ,泣いている者もいれば膝をついて拝んでいる者もいる。
 アリサは慣れない光に手をかざしながら空を見上げ,息を呑んだ。
 目を射抜くほど青い空に,鮮やかな7色の半円が浮かんでいる。一瞬何か分からなかったが,ケイから度々聞かされた“虹”の話が頭に浮かぶ。
(赤から始まる7色の橋……。本当にその通りだ)
 雨が上がった時に見られる美しい現象。雨を好んでいたアリサにとっては興味のない話だったが,目の当たりにした瞬間,胸の奥底から感動が沸き上がった。
(本当に,あなたの言うことにはハズレがないな。ケイ)
 ケイの飄々とした笑顔がよぎり,無意識な涙が落ちる。アリサはうつ向いて,泣いてばかりの子供っぽい自分に笑みを浮かべた。
 今日はもう沢山泣いた。あとは全てリセットして,前へと進むだけだ。
 アリサは力強く涙を拭うと,顔を上げて雨上がりの村へと踏み込んだのだった。


「霧雨の唄」了

テーマ:雨上がり・少女・仇