霧雨の唄 弐

「ケイ,見ろ! すごい雨だぞ!」
 アリサの弾んだ声と鋭い平手に,ケイはたまらず目を覚ます。昨夜は眠りが浅かったのか,まぶたの奥に霧がかかったようだ。ケイは半目のまま,自分を覗き込むアリサの顔をぼんやりと見つめる。
「……雨なんて毎日降ってるよ。昨日だって降ってたし」
「それは知ってる! そうじゃなくて,久々の篠突く雨なんだ! 音が聞こえないか?」
 どれほど雨音が恋しかったのか。アリサのはしゃぎようは,彼女が頑なに拒む子供のそれだった。確かに耳を澄まさなくとも,あばら屋を打つ雨は昨日よりもずっと強い。篠竹を突き下ろすような鋭い雨──篠突く雨だ。
「今日は依頼も無いし,いい気分だ。あとで外に出てみよう」
 朝から一人楽しげなアリサに,ケイはふぅと大人びたため息をついてみせる。
「本当に雨が好きだね,アリサは。ここは文字通り,毎日雨が降ってるってのにさ」
「同じ雨でも違う。わたしは強い雨が好きなんだ。小さい頃からずっと」
「でも弱い雨や霧雨の日だって必要だと思わない? 毎日強い雨じゃ,村は一瞬で水に沈んでしまうよ」
「……沈んでしまえばいいんだ。こんな村」
 アリサの声が唸るように低くなる。
 ケイは目付きを変え,アリサへ顔を向けた。
「そう思うかい?」
「思う。お姉ちゃんを殺したヤツがいる村なんて,存在してるだけで腹立たしい」
 古びた壁の一点を見つめる幼い顔は,子供らしからぬ無表情だった。
「あまり覚えてないけど,ケイがわたしを拾ってくれたんだよな。わたしが2歳のときに,お姉ちゃんが殺されて──」
「拾ったわけじゃないよ」
 ケイの涼やかな声が鋭く遮る。
「お姉ちゃんに君を託されたんだ。言っただろう? 勇敢なお姉ちゃんは,僕を助けて殺されたんだと」
「……言われたかも」
 アリサはややむくれてうつ向いた。
「2歳でも“許せない”って思ったんだろうな,わたしは。毎日依頼を受けて殺し屋をやってれば,いつかお姉ちゃんを殺したヤツを──ってね」
 寂しげに微笑んで,ケイに顔を向ける。10歳の少女が何て顔をするんだと,ケイの胸がちくりと疼いた。
「でも,いつ会えるかも分からないヤツのために人を殺し続けていいのかなって最近思う。わたしがやってることは全く意味ないんじゃないかって」
「……」
 二人にとっては珍しい,重い沈黙が室内を漂う。アリサは膨れっ面で,ケイは物憂げに目を伏せて,言葉を探し黙りこんだ。自分は関係無しとでも言わんばかりに降り続ける雨が音を増し,あばら屋の空気を冷たく満たす。
 やがて根負けしたようにケイが「はぁ」と天井を仰ぎ見た。
「らしくないなアリサ。せっかくの篠突く雨だっていうのに,どうしてそう辛気臭いんだい?」
「……」
「大丈夫。心配しなくたって意味はあるさ。それに,君一人ではないんだ。目の前にいる僕を見てもらわないと困るよ」
「……一人にはしないでくれるな?」
「聞くまでもないだろう」
 ケイはアリサへ歩み寄ると,その手を握った。少し力を加えただけで潰れてしまいそうな,繊細で小さな手。この手で大の大人を何人も殺しているのは,信じがたい事実だ。
 だが,今の彼女の手は誰よりも寂しげで,握らねば雨雲と共に消え去ってしまいそうな,不安げな儚さが滲んでいる。自ずと指に力がこもった。
「ケイ?」
「さあ。この雨が恋しかったんだろう? 外へ出るんじゃなかったのかい? 僕も付き合うから,そんな似合わない顔するんじゃないよ」
「──うん!」
 大きく頷いたアリサは,今度はケイの手をガッと掴んで引っ張った。そのまま引きずるように玄関へと向かい戸を開け放つと,細く尖った雨が幾重にも重なって厚く降り頻っている。
 鬱々とした気持ちが一瞬で晴れたらしいアリサは,呆れ笑いを漏らすしかないケイと共に,冷たい雨の層へと突っ込んだのだった。

★続く