ダイヤモンドは語る 参

 手術室前の空気は,身じろぎ一つが耳障りなほど重かった。長椅子に腰かけた私と,宗一の母,美幸,父の誠二郎。病院に飛び込んでから果たしてどれ程時間が経ったのかまるで分からない。
 誠二郎の話によれば,事故が起きたのは私に連絡が届いた30分ほど前。宗一家族が住む公営住宅の前で発生したらしい。宗一は11:30頃,待ち合わせ場所であるキリンの公園へ向かうべく家を出た。確かに,宗一の家から私の家へは徒歩で30分,車でも15分ほどはかかる。その直後,車の急ブレーキが鳴り響き,飛び出してみると宗一が血を流して倒れていた,という内容だった。
 ひき逃げかもしれない。その言葉で締めくくられ,私の胸にはどす黒い粘ついた怒りが渦巻いた。やがて手術室のランプが点滅するまでその憎悪は微塵も動かず,吐きそうだった。
 青衣を着た長身の医師が手術室から出てくる。反射的に立ち上がった私たちの顔を順に見回し,言葉もなく深々と頭を下げた。滲み出る無念と失意に,宗一が助からなかったことを察した。
 美幸が顔を覆い,泣き叫ぶ。誠二郎はうつむき,長椅子に座り込んで膝に頭を埋めた。
 私は,幽霊のようにその場に立ち尽くしていた。足が動かず,何も考えられなかった。

 医師の話では,重傷でありながら即死には至らなかったらしい。
「救える希望は残っていました。しかし,我々の力及ばず,彼を助けられなかった」
 鋭い目に涙を湛え,医師は「申し訳ありません」と再び私たちに頭を下げた。私たちは命がけで宗一に手を施した医師に,心からの敬意を込めてお辞儀を返した。
 宗一が死んでから,仕事もまともに手がつかなかった。商品陳列のミスや会計ミスなど,社員としては致命的な行動を何度も起こしてしまう。見かねた店長に,
「6月の前半に有休を取りなさい」
 とまで言われる始末だ。
 食事も明らかに量が減り,私は心身ともに崩れていた。
 6月に入る。私は言われた通り,祝日を挟んで4連休の有休を取った。取ったはいいものの,何もする予定がない。宗一が死んだのだから。何をしていても,手術台に横たわる土気色の宗一が頭に根付いて離れない。人の声を聞くことすら億劫で,私は1日の大半を無感情で過ごしていた。
 美幸から連絡が入ったのは,有休3日目の朝だった。午前9時,着信音で目が覚めた私は,相手の名前も確認せずにスマートフォンを取った。
「沙織ちゃん,あのね……」
 美幸の声で我に帰る。彼女の声を聞くのは,病院に響き渡った慟哭以来だ。
「小母(おば)さん? おはようございます……」
「おはよう」
 美幸は寝ぼけ声の私へ律儀に返すと,再び声音を変えてこう言った。
「言おうかどうか迷ってたんだけど,私,宗一が事故にあったときに男の子を見たの」
「男の子?」
「ええ。走っていく男の子。近くに車も無かったから,ここら辺の子だったのかもしれないけど,後ろ姿だから分からなかった。まるで逃げてるようだったわ」
「……もしかして」
「うん」
 私と美幸の想像は同じだったらしい。美幸は悲しげに,それでもハッキリと言った。

「宗一,あの男の子を助けて車に轢かれたんじゃないかしら──」

 美幸との通話を終えた私は,自然とキリン公園へ向かっていた。薄手のパーカーのポケットには,あの黒い小箱が入っている。向かう途中,公園に隣接したT字路の左奥に目をやる。独り暮らしにはありがたい,中規模のスーパーが見えた。これなら,納得がいく。
 キリン公園の入り口でぼんやりと立ち尽くす。確信はなかった。しかし,今日は祝日。“彼”が現れる可能性はゼロではない。
 そして──
「お姉ちゃん」
 聞き覚えのある高い声。私はすぐさま振り返る。
 案の定,ハヤカワ シュンがそこに立っていた。

★続く